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 日本史の記事一覧 

 #5 江川英龍 

江川文庫 英龍の研究が進んだのは、ここ十数年の事で、
7万点の資料の分析が2013年に終了し、4万点が重要文化財になった。

蜀江の袴
1848年 マリナー号事件
 下田に来て、帰ろうとしなかった。
英龍は、普段は継ぎだらけの着物を着ていたが、
錦刺繍の野袴を部下にも与え、さっそうとイギリス船に乗り込んだ。
その威風堂々とした態度にイギリス人は礼を尽くし、下田を去った。

木製の台場模型
幕府に説明するために作った。本当はこんなふうに作りたかった。

実寸大の大砲の設計図

英龍が纏めた海岸線地図(嘉永6年、1853年) 初公開。
千葉から静岡県付近までの海岸線を、自らの調査で描いた。
地形や水深など、細部にわたって書き込まれている。



お知らせ 少し短いですが、江川文庫は7万点もあるので、
後から書き足すことを考えて区切りました。


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 #4 江川英龍 

江川邸 代々代官を努めてきた江川家の住居。
国指定重要文化財 現存する邸宅建築では日本最古

1261年に日蓮上人が数日間滞在
日蓮上人直筆の札が納められた箱
がある。
その御利益か、江川家は750年以上続いているという。

表門
福澤諭吉は、英龍を近世の英雄だと敬い、
明治になると、江川家の江戸屋敷を譲り受け、慶応義塾舎にした
当時の正門は、現代の江川邸の表門になっている。

主屋 400年前の建物。

土間 50坪。
細かい梁
がいっぱいある。力学的に組まれた楔で耐震性に優れる。

ペリーから贈られた砲車 幕府に贈ったものが、現在は江川邸に置いてある。

パンを焼く鍋 
パン祖
 英龍は日本で一番最初にパンを焼いた人。 
海防につながる、軍の携帯食にした
江川邸で作ったりした。自ら書いた作り方の書がある。

固いが消化が良く、3年も日持ちする!



感想 パン祖のパンは確かに固いけれど、ちびちび齧ればいいと思います。
固い食べ物が少なくなった現代、顎によい食べ物です☆
お子様の歯並びが良くなるように、赤ちゃんの歯固めにも♪
素朴な味わいがあっておいしいです。棒状のものがおすすめです。

おまけ 17~19世紀の、大英帝国の大航海ごはん 





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 #3 江川英龍 

長崎 当時、唯一諸外国の情報を知ることができた町

出島 国内で唯一のオランダとの貿易窓口
オランダ船は小舟に荷物を積み替えて、出島に入った。

出島復元計画 2050年完成予定。

水門 
右側が輸入の門
 砂糖・生糸・蘭書など。
左側が輸出の門 銀・銅・陶器など。

シーボルトは日本中の薬草などを育て、ヨーロッパに輸出した。

NIPPON シーボルト著 ペリーは1852年にアメリカで購入。

商館(カピタン)長は幕府への提出書類でペリーの来航を事前に伝えていたが、
幕府は何も手を打たなかった



高島秋帆
出島を作った町人衆の家系。
長崎の町政を司る役人の筆頭である、町年寄を務めていた。

秋帆は、幕府よりもはるか前に行動を開始していた。

自費でオランダから大砲や銃を買い求め、高島流という西洋砲術を確立。
出島内でオランダ人からの情報収集も怠らなかった。

阿片戦争で清がイギリスに敗北 老中水野忠邦に西洋砲術の導入を進言

1841年 秋帆の公開砲術演習で、英龍は高島流砲術に出会った
秋帆は幕府の砲術指南役となった。英龍は秋帆に弟子入りした。

同年、英龍は高島流砲術の免許皆伝
を受け、
取得した技術を全国に広めるために奔走



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 #2 江川英龍 

民政
1835年(34歳) 天保の大飢饉のさなかに韮山代官に就任
一揆を防ぐため、低金利の貸付金制度などを積極的に導入。
人々は「世直し江川大明神」と讃えた。


二宮尊徳を招聘して農地の改良。

林業の振興。

1837年 刀商人に扮して甲斐・武蔵・相模を視察

不穏分子がいないか、問題を解決するために自ら出かけた。

代官の仕事と共に、欧米列強の脅威に備え、
早くから幕府に海防の必要性を説いていた。


1837年 米船モリソン号事件が起こり、幕府に西洋技術の導入を進言
伊能忠敬に測量技術を学ぶ。

1838年
特に統治が困難とされていた甲斐国都留郡2万1千石余を任される

当時の韮山代官は、伊豆・相模・甲斐・駿河・武蔵の、
5国8万石の天領を支配地としていた。


1850年
種痘の技術が伝わると、まず我が子に受けさせ、領民への接種を積極的に推進。




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 #1 江川英龍 

※2つの番組を混ぜました。どちらも番組名が長い。

韮山反射炉世界遺産登録記念
幕末の知られざる英雄 江川英龍という男 CMが地元。

玉木宏の歴史タイムトリップスペシャル
韮山反射炉を造った江川英龍



江川英龍 江川家第36代当主。 
韮山代官 世襲代官。

幼いころから文武両道に励み、17歳で江戸に剣術の修行に出て、
2年後に神道無念流の免許皆伝を受ける。

 母から賜った言葉。英龍はこの精神を終身固く守り続けた。
自分に厳しい人で、冬も袷一枚で過ごしたという。


文化人 書や絵画の才能も秀でていた。

絵画
蝶・花・蠅
 写真のように細かい。

 いろいろな角度から描いている。

孔雀 嫁ぐ妹のために描いて贈った。

人物画 子どもや庶民もたくさん描きとめており、微笑ましい。
代官でありながら庶民を身近に感じ、大切に思っていた。


勝海舟
英龍が水戸藩主の斉昭の命で琴を奏で、喝采が起きたと証言。



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 伊奈忠次の防災術 

知恵泉 江戸を救った男 伊奈忠次の防災術

伊奈忠次(1550~1610年)
14歳の時、家康に対する一揆に加担。
税を免除されている人達から米を徴収する家康に反発するが、
家康の軍事力の前に故郷を追われた
食いつなぐために各地の土木作業に従事
罪が許されるまで、13年間農村の暮らしを見つめた。


小田原攻め(1590年)
雨で荒れる天竜川を強引に渡ろうとした秀吉に、しばらく待つように直言し、
3日後に全員無事に渡ることができた。

忠次は百人の部下を先周りさせ、住民から情報を得ていた。


代官頭 関東一円の治水を担う大役。
家康が江戸に入った時に水害対策を請け負い、家康の不安を取り除いた。
今日の首都東京を安心して暮らせる街にした。

江戸は、かつてはいくつもの河口がある広大な湿地で、
大雨が降るとすぐに洪水が発生する水害多発地帯だった。


 村ではなく、河川の流域ごとに区分け
上流と下流にまたがる村々を、一つの運命共同体とみなし、
情報を共有できるようにした。
↑小さい村がいっぱいあったのですね~。


備前渠(埼玉県熊谷市)1604年に完成し、今も使っている。
3つの市にまたがる23kmの水路。
領の二千人が手分けして、定期的に見回り
をしている。

小さいことを早めに対処すること、みんなの力が大事。

行政が全部行うのではなく、
地域にある程度任せる仕組みを作れば、住民達は十分に働き、安全を作ってくれる。



利根川の流れを変える治水事業を指揮
かつて利根川は江戸湾に流れ込んでいた。


中条堤(埼玉県熊谷市)
洪水の時はここに水を溜め、江戸を守った。

意外な効果 この地は大洪水の時以外は肥沃になった。


水塚(みづか) 3m位の盛り土に建てられた避難場所
味噌・醤油・米を備蓄。
江戸時代に考案され、今も300か所以上が残っている。

昭和22年の台風の時は、2週間避難
できた。

いつも、100年に一度の災害に備えている。
利根川流域に住む人は、今も防災意識が高い。


備前堀(伊奈備前守忠次に因んだ名前)
12kmをわずか一年で完成。
千波湖の治水を行う時に、水路を水に恵まれなかった地域に遠回りさせ、
防災と新田開発を同時
に行った。

作業者に十分な報酬を約束し、功ある者には褒賞もあった。
人々は難工事でも提灯を使い、昼夜問わずに働いたという。
今も980haの田んぼを潤し続けている。


一時は庶民と同じ過酷な暮らしをしながら家康の側近に昇りつめ、
人の上に立っても暮らしの安全を大切にし、誰にでもできる防災を実践し続けた。
そして、関東の石高を倍に増やした


伊奈流 伊奈忠次の考え方。
減災 自然に抗わない。やりすごす。災害は防げなくても、被害を防ごう

人・財政・技術が足りない中、工夫して町を守った。

江戸中期以降は土地が足りなくなり、伊奈流は主流から外れていった。
しかし現在、その考え方は見直されつつある。

日産スタジアム(横浜市)
地下の駐車場などが、洪水時には水を溜めこむ遊水池になる。
2014年10月、鶴見川の水を受け止め、住宅地を守った。

互近所カード 東京都昭島市。
普段は商店街の割引に使えて、災害時は会員番号で安全を確認できる。


岩手県田老地区 
明治 15mの津波 1859人の犠牲者。
昭和 10m     911人
平成 18m     180人

犠牲者がいることはすごく悲しく辛い。
しかし、10mの堤防は役に立たなかったのではなく、
津波の衝撃を和らげ、多くの人が逃げる時間を稼ぐことができたとも言える。
それは、地域の人の防災意識と、先人からの経験と知恵のおかげである。


防災意識が高い地域は、防犯効果も高い。
楽しんで防災する
 自分で、地域で、自主的に。
悲観的に準備して、楽観的に生活する。
いざというときは、持ち出すものは命だけ!


おまけ
利根川や荒川の付け替え普請、知行割寺社政策など、
江戸幕府の財政基盤の確立に寄与し、その業績は計り知れない。

諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、
武士や町民たちはもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などをすすめ、
桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、
農民たちからも神仏のように敬われていたという。


感想
父が一揆に参加したのね。許されるのを待つのではなく陣借りして帰参。
その後は信康についていたのか、危なかったね~。
でも伊賀越えを助けたのか、それは重用されるかもね。

すごい人はいっぱいいるなあ。
江戸を守るために埼玉県とか、視野が広いなあ。

秀吉から一万石(大名扱い)で誘われた。
もし了承していたら、備前渠・備前堀・中条堤などなど、
今の関東はなかったんだなあ。
そして、今も残っているものって多いんだね。



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 小野妹子 

歴史にドキリ
「妹」 家を守る、繁栄を守るという意味がある。

 洛陽には40万人。 
300年ぶりに統一を果たした隋は朝鮮半島に外圧をかける。日本は内政を進める。

遣隋使 対等外交を目指した。船には80人が乗り、50人が漕ぎ2か月かかる。
第一回目 自国の素晴らしさを伝えようとして失敗。
第二回目 小野妹子が手紙を持って行った。
第三回目 小野妹子は学者も連れて行った。

返書は百済でとられたが、対等外交成立。
隋は高句麗と緊張状態なので、その機会を狙った。←大陸の情報を得ていたのがすごい。

小野妹子は華道の祖でもある 仏前に花を供える風習を持ち帰ったという。

感想 
小学生向け番組だし短いのはしょうがないか。「妹」の字の意味は面白かった。



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 歴史読本2011年11月号 

古代皇位継承ファイル第5回

蘇我氏と物部氏
仏法は百済王から欽明天皇に正式な外交で贈られたもの。
仏教の是非ではなく、「蕃神をどのように祀るか」が当時の論争の焦点ではないか。

人々は神々に豊穣を感謝する反面、途方もない怒りや祟りをひたすら畏れていた。
蕃神とは外国から来た神で、在来の神々と同類
だと見なされていた。
しかし、在来の神々が目に見えぬものとされていたのに対し、
蕃神は肉眼で捉えられる美しいものだった。
人々は、蕃神を正しく祀らねばとんでもない災厄を招くと思った。

天皇は在来の神々の祭祀を総括
している。
欽明天皇は最も信頼していた稲目に蕃神の祭祀を依頼したのではないか。

一方、物部尾輿や中臣鎌子らは天皇の祭祀を補佐してきた豪族で、
蕃神の祭祀も自分たちに任せてもらうのが筋だと考えたのではないだろうか。



感想 
受け入れることは前提で、誰がどのように祀るかで対立したという説に、
なるほどなあと思いました。まだ分からないので興味を持ち続けたいです。

『敗者の日本史 第1回ニギハヤヒ命と長脛彦』も面白かったです。



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 #後 歴史に消えた敗者たち 彼らはなぜ負けたのか 

蘇我氏 公共事業や外交政策で国家に多大な貢献をしていた。
馬子 仏教を導入し、国内を纏め、海外に日本は文明国であると示した。
飛鳥寺 日本初の仏教寺院。当時最先端の土木技術。
現在の20倍
広かった。大陸から来た使者も驚かせた絢爛豪華さだった。

蝦夷 外国との交流を積極的に進める。
618年 唐が成立すると遣唐使を派遣することを決め、友好関係を築いた。

入鹿 若い頃から秀才だった。

蘇我太郎(入鹿)に如くはなし 「藤子家伝」より


朝鮮半島との外交政策の転換を決める。
仲が良かった百済が642年に新羅に侵攻。
このまま百済との関係を重視すれば唐の脅威にさらされると考えた入鹿は、
新羅とも国交を結び、等距離外交を進めた。
唐・新羅の同盟 

甘樫の丘の発掘 
武器庫・兵舎・外敵から都を守る公的な要塞施設だったのではないか。
甘樫の丘は盟神探湯
(くがたちこ:古代の呪術的な裁判)が行われた神聖な丘。
蘇我氏が独断で甘樫の丘に邸宅を建てることは不可能だったのではないか。

645年 乙巳の変
中大兄皇子と中臣鎌足は、古人大兄皇子を推していた入鹿を暗殺。

その時入鹿は「私は何もしていない」と言ったという。

なぜ滅びたか
杭側は出ていると思っていない 低姿勢が大切。

カリスマ性のある人から低姿勢に接されると相手は感動する。

全ては海の杭 秋元康さんの言葉。
海の杭は海面の高さによって見える時と見えない時がある
全ては一時的なことだと思えば思い上がることはない。


敗者は勝者に悪人の印象を負わされる
天皇記・国記 馬子が聖徳太子と編纂したと言われるが消失
した。

日本書記 
24巻に漢文文法の誤りがあるなど、記述の書き換えがある
ことが分かってきた。

蘇我氏は天皇に歯向かった傲慢な一族だという記述が随所にあるのは、
中大兄皇子の子孫達が編纂したからではないか


平家物語 鎌倉時代に成立。平家の傲慢さのみを強調。

吾妻鏡
 
鎌倉幕府の執権北条氏が編纂したといわれる。北条贔屓だと思って読む必要がある。

秋元康さんの言葉
「歴史書の後ろに(勝者編)と付けていれば誠実だなと思うのに」

石井さんの言葉
「小さい負けを積み重ねておけば、ここぞという時に負けない」


吉良上野介義央 領地の三河では新田開発・堤防の建設を進めた名君。

しかし赤穂浪士の討ち入り事件で大きく取り上げられ、
たちまち歌舞伎や浄瑠璃に仕立てられた。
赤穂浪士を賛美したい観客の要望に応え、劇中で典型的な悪人に描かれるようになった。

石田三成 豊臣政権の中央政権化を進めた。

秀頼をも殺した家康は後ろめたかった。


敗者達は殊更に悪人だと断罪され、反論する機会を失ったまま、
負けたという事実以上の重荷を背負わされた。

日本人は大勢の意見を疑わない。大衆の思いが時代を動かしてきた。



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 #前 歴史に消えた敗者たち 彼らはなぜ負けたのか 

知恵泉スペシャル 敗者に学べ!「歴史に消えた敗者たち 彼らはなぜ負けたのか」

平家 日宋貿易 瀬戸内航路を開き、長い間途切れていた大陸との貿易を再開。
開明派。国を閉ざす派の源氏に倒された。平家のみが栄えたのがまずかった。

田沼意次 長崎貿易・蝦夷地の開発。
保守派に批判され、濡れ衣を着せられ失脚。
日本では和を大切にする。
皆を引っ張る英雄のような人は胡散臭いと感じ、小さな失敗を追及して辞めさせる

先見の明と政治力は両立しにくい
天才は理解されないから、人々に理解してもらうために補佐役が必要
秀吉と秀長などが好例。


二郎の歴史トピック
韮山反射炉 安政5(1858)完成。
熱を反射・集中させ、鉄を溶かす。
大砲を作るための、製砲工場。

江川英龍 ペリー来航で国の備えの必然性を痛感。
オランダの大砲鋳造技術所を参考に、試行錯誤して作った。

実際に大砲を製造し、現存している反射炉は世界でここだけ。

政府は明治日本の産業革命遺産の一つとして世界文化遺産に推薦。

日本中の海岸線の地図
 並べると部屋に収まりきらないほど。
常に外圧を意識していた。

パン 兵糧として作った乾パンのようなもの。
日本で初めてパンを作ったので「パン祖」とも呼ばれている。

仕事の合間に絵を描いていた 何気ない庶民の姿。庶民の幸せを願っていた。


感想 
今回は15分増えて45分だったけれど、韮山反射炉をなぜここに持って来るのか。
おまけのようにつけるのではなく、30分かけて紹介してほしかったなあ。


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