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 大奥贈答品日記 まとめ 

大奥贈答品日記 英雄たちの選択スペシャル

瀧山日記
1859年~1868年の贈答品を記した、幕末の記録。

瀧山 将軍5代に仕え、御年寄に上り詰めた。
非常事態時の大奥の指揮官だった。


日記の一行目
「炎上につき 金20両、他に5両を手当金として頂いた。」
安政6年(1859)に本丸御殿が焼失した火災。
今の価値で約500万円。

この火災で、天璋院からも金15両(約300万円)、
本寿院(将軍家定の生母)からも金5両の手当金が贈られた。

大奥の復興事業の最高責任者を担っていたのではないか。


家茂と和宮の、史上最大級の婚礼を取り仕切った
900万両(約1兆8000億円)の費用が掛かった。

「御婚礼係につき御台様から羽二重を頂いた」
主役である和宮本人から婚礼を取りしきったお礼にと
高価な絹織物羽二重が贈られていた。
家茂や、二人の母親からもねぎらいの贈り物が届けられた。


家茂が死去した時は一日で4ページものお悔やみの品が届いた。


将軍付き御年寄 将軍に近い。老中と対応する高い役職。
省庁に例えたら大奥省事務次官 高い調整能力が必要。


大奥で出世する人
1、引き
 人脈
2、運  きっかけ
3、器量 容姿・能力


瀧山は表の政治に関わる黒幕
幕府内の人事を操っていた
跡部のお願いを取り扱ったとしてお礼の品
をもらっていた。

跡部良弼
大阪の米を江戸に横流しし、大塩平八郎の乱の引き金
になった人物。

しかし、その後、本寿院から跡部を再び出世させてほしいと頼まれる。
跡部は江戸城 留守居役という高い地位に二度目の就任を果たした。
幕府政治の最高職、老中を動かしたのではないか。
跡部が昇進した翌月に、お礼の記述がある。
瀧山が異例の人事を叶えていたことが浮かび上がってきた。


当時の感覚では忠義な行動
瀧山は徳川家を中心に考えている。

徳川将軍の生母のお家の跡部家の人が駄目なことをしたら、
将軍が傷つくことになる
ので、
「御留守居」という大奥に一番近い役職(旗本最高位)につけた。

将軍の権威は保たれるが、周りには外国船がやって来て
そんなことをやっている場合ではないという事態も進んでいる。


「昔夢会筆記」 慶喜を取材した記録。
慶喜がなかなか将軍を引き受けなかったのは、
瀧山が老中以上の権力を持っていたから
、と答えている。


幕府の命令も覆した
田安慶頼
 大奥に出入りできる、瀧山と親しい存在。
領地替えの命令を覆してもらうために越後上布を贈った。
越後上布 ユネスコの無形文化遺産にも登録されている最高級の麻織物。
半年後、田安からお礼の品が届いたと記されている。

静寛院宮御側日記
瀧山が和宮・天璋院・老中と田安の領地替えについてやりとりをした、
約五か月の詳細な記録
が記されている。

田安家はちょっと前の将軍の子どもが養子に入っている家で、
大奥からしたら一家のような感覚
だったのではないか。


瀧山は次期将軍も決めていた?
徳川斉昭
 大奥に最も嫌われた男。

14代将軍を決めるとき、慶喜を推す斉昭・島津斉彬に対して、
瀧山は慶福に付いた。


13代将軍家定の御台所になった篤姫は斉彬の娘で、
瀧山が慶喜を推すように説得しろと仕向けたが、篤姫は慶福に鞍替えした。
水戸嫌いの瀧山が篤姫を逆に説得したのではないか。


三度の婚礼を取り仕切った
普通の御年寄は将軍が亡くなったらやめるが、やめなかった。
人脈がどんどん増えていった。



瀧山の性格や人柄
8歳から仕立物をするなど手内職を始め苦しい家計を助けていた。

16歳の時、大奥にいた叔母、染嶋の手引きで、
11代将軍家斉の大奥へ奉公に上がった。

すぐにその才覚を認められ、
大奥の入り口となる重要な御鈴廊下の鍵番「御錠口」へ抜擢。

さらに接待役の「御客応答」へ昇進後、
たった3日で御年寄へと昇進。

12代将軍の時に最も力を持つ姉小路という上臈御年寄にかわいがられていた。


瀧山が贈ったもの
10年間で395人。

親が病気になった部下を想い見舞い金を包んであげたり、
里帰りをする部下にちりめんやきせるなどたくさんのお土産を持たせたり、
慶応2年、神田で火事が起きた際には、
大奥とつきあいのある商人たちへ多額の見舞い金
を贈った。

同僚の御年寄大崎が大奥を去る際は自ら焼いたせんべいを贈り、
女中にもあげた。



ちょっと面白い記録
ある日、巻物晒とせん子掛けをもらったが、
同僚の女中たちは一つしかもらっていない
ことをわざわざ書き留めている。

天璋院から観菊の席へじきじきに呼ばれたことも書き留めている。



九州の佐土原藩や福岡藩まで、全国各地の21の藩から
贈り物
が届けられている。
大奥という閉ざされた空間にいた瀧山は実は全国各地とつながっていた。

瀧山への贈り物回数
1、和宮
2、天璋院
3、実成院
4、本寿院
5、溶姫

和宮からは老眼鏡や振り子付きの時計など、当時最先端の高級品が贈られた。


特に大奥行事の度に贈り物が贈られていた。

御納戸払い 年末に行われた。
御台所が奥女中たちにお召し物を下げ渡す。

くじ引き大会 主催は天璋院や和宮。
正月三が日に行われた。諸家から献上されたお年玉が配られた。


御殿女中
瀧山が二度命を狙われたという伝説めいた記述
がある。

文久3年 和宮が家茂に嫁いだ一年後。
実成院(家茂の母)に、毎日酒を飲んで騒ぐので注意したら、
毒を盛られた
と書いてある。侍女たちが連日稲荷神社にお祈りして回復。

それから一月位後、瀧山の部屋が火事になったが、きつねが知らせてくれた

千人もの女性がいた大奥で長い間君臨したのはすごいことである。


瀧山は江戸城の開城の半年前に大奥を辞めていた
1867年(慶応3年) 家茂の一周忌が過ぎ、大政奉還をした頃。

埼玉県川口市
侍女仲野の生家があった。

生涯子どもを持たなかった瀧山は、
侍女仲野の親戚であった、みねと幸次郎を夫婦養子として迎えた。
新しい家族を、実家の大岡姓ではなく、瀧山姓で残した


錫杖寺(埼玉県川口市) 瀧山のお墓がある。
歴代将軍が日光東照宮に参拝するときに休憩していた寺。

瀧山はあまり歴史の教科書に出てこない。
しかし、歴史は見えている人だけが動かしているとは限らない。

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