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 ヤマト王権について 

ヤマト王権についてを纏めただけです。

発掘調査の進歩により、昔は大和時代の大和朝廷などと言っていたが、
今は古墳時代のヤマト王権と呼ぶ。

大和(ヤマト)
1、国号「日本(倭)」の訓読(古代の日本国家全体
2、令制国としての「大和」
3、奈良盆地東南部の三輪山麓一帯(令制大和国のうちの磯城郡・十市郡)
最も狭い3のヤマトこそ出現期古墳が集中する地域であり、
2を連想させる「大和」より「ヤマト」が適切と考えられるようになった。

3世紀から始まる古墳時代に、
「王」「大王」などと呼称された倭国の王を中心として、
有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織。
近畿地方だけではなく各地の豪族をも含めた連合政権。

現在の大和朝廷
古墳時代の後
飛鳥時代で天皇を中心とした日本国の中央集権組織を指す。


ヤマト王権の歴史
(まだ確定ではないけれど)
1、190~260年頃 胎動期。
2、270~370年頃 初期王権時代。
3、370~490年頃 完成時代。
4、490~530年頃 王権による種族の統合
5、530年頃~    初期国家の建設



1、小国の発生
弥生時代、「倭」と称される一定の領域があり、
「王」と呼ばれる君主がいた
(後漢書・107年の記述)。

3世紀まで小国分立の状態が続いた(魏志倭人伝)。

(まだ確定ではないけれど)
纏向遺跡 小国連合の中枢?
卑弥呼死後の邪馬台国を再編したものがヤマト王権?

邪馬台国が近畿地方にあった可能性が強くなったが、
初期大和王権との系譜的関係はむしろ繋がらない?

古墳の所在地に政治的基盤があったかは再検討すべきという考えもある。

2、ヤマト王権の成立
前方後円墳の出現とその広がりを基準とする
見方が有力。

定型化した古墳は、遅くとも4世紀の中葉までには、
東北地方中部や九州地方南部にまで波及


3、中期 4~5世紀は巨大古墳の時代。

4、475年 高句麗によって百済の都漢城が陥落。
雄略天皇(5~6世紀)
倭の五王の武と比定される。渡来人第二波の時期でもあった。

5世紀後半 
大王の権威が増し、大和政権の大王以外の地方の古墳が作られなくなり
ヤマト政権の性格が大きく変質したようだ。

群集墳
地方の首長の権威が落ち、地方の中小首長が台頭。

ワカタケル大王の王権強化策は成功したものの、
旧来の勢力からの反発を招き、王権が一時的に弱体化した


稲荷山鉄剣や江田船山大刀に刻された銘文とその考古学的解釈により、
地方首長が直接ヤマトの大王と結びついていたのではなく、
地方首長と、ヤマト王権を構成する畿内氏族(大伴、物部、阿部など)とが、
強い結びつきをもつようになった
と想定される。

王は「大王」として専制的な権力を保有するようになったとともに、
大王と各地の首長層との結びつきはむしろ稀薄化し、
大王の地位自体がしだいに畿内豪族連合の機関へと変質
していく。

5世紀末葉~6世紀初頭
短期間に清寧、顕宗、仁賢、武烈の4人の大王が次々に現れた
(日本書紀)。
王統自体も激しく動揺したことを示唆。

6世紀初頭
近江から北陸にかけての首長層を背景としたオホド王(継体天皇)
が現れ、
ヤマトに迎えられ王統を統一。
しかし、奈良盆地に入るのに20年の歳月を要しており、
この王権の確立が必ずしもスムーズではなかったことを物語る。

527年 磐井の乱
北九州の有力豪族・筑紫君磐井が新羅と連携して、ヤマト王権と軍事衝突

531~539年にかけては、王権の分裂も考えられ、
安閑・宣化の王権と欽明の王権が対立
したとする説もある(辛亥の変)。
一方、オホド王の登場以降、
東北地方から九州地方南部におよぶ全域の統合が急速に進み、
特に磐井の乱の後には各地に屯倉とよばれる直轄地が置かれ、
国内的には政治統一が進展
したとする見方が有力。


5、ヤマト国家から律令制へ(古墳時代後期後半)
6世紀前半は砂鉄を素材とする製鉄法が開発されて鉄の自給が可能になり、
ヤマト王権は対外的には消極的となった。

半島からは暦法など中国の文物を移入し、
豪族や民衆の系列化・組織化を進めて内政面を強化
していった。

ヤマト王権の内部では、中央豪族の政権における主導権や、
田荘・部民などの獲得をめぐって抗争がつづいた。


大伴氏失脚後は、蘇我稲目と物部尾輿が崇仏か排仏かをめぐって対立した。

6世紀末
いくつかの紛争に勝利した推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子らが、
強固な政治基盤
を築きあげ、
冠位十二階や十七条憲法の制定など官僚制を柱とする、
王権の革新
を積極的に進めた。
6世紀中葉に日本に伝来した仏教は、
統治と支配をささえるイデオロギーとして重視
され、
『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂された。

これ以降、氏族制度を基軸とした政治形態や諸制度は徐々に解消され、
ヤマト国家の段階は終焉を迎え、古代律令制国家が形成
されていく。

「日本(当初は『日本』と書き『やまと』と訓じた)」へ
7世紀半ば 唐が高句麗を攻め始める
ヤマトも中央集権の必要性が高まり、大化の改新が行われた。
壬申の乱にて皇位継承権を勝ち取った天武天皇は藤原京の造営を始め、
持統天皇の代に飛鳥から遷都
した。

701年大宝律令が完成し、
この頃からヤマト王権は「日本」を国号の表記として用いるようになった。



感想
長かった~。纏めきれていないと思うので、気になる方はwikiをご覧ください。

まだはっきりしていない部分もあるけれど、これを読んでいると、
思っていたより邪馬台国とヤマト王権は近い所にあるのかもしれない、
邪馬台国近畿派が増えるのも分かるなあと思いました。

今回の記事はヤマト王権と天皇家の歴史は同じみたいで、
邪馬台国は同じではないみたいな書き方だなと感じました。
今回纏めたこととは違う説もいっぱいあり、何が正しいかはまだ分かりません。
例:王朝交代説

畿内派だと九州派よりも、
邪馬台国・ヤマト王権・天皇家の歴史、が重なる部分がありますね。
日本書紀や古事記もあって、現実と神話も混ざっている気がして、
これらはつながっているのか別の物なのか、
すっきり説明するのはとても難しいだろうなと感じました。

私は日本列島に住んでいた、統一されていく側の方に興味があります。
大陸に影響される前、どういう暮らしをしていたのかな。
どんな現代とは違う考え方を持っていたのかな。

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