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 #9後 高校講座日本史 

3、保元・平治の乱と平氏政権
保元の乱(1156年)
鳥羽法皇は、
崇徳天皇の次に崇徳の子の重仁親王を即位させず、
崇徳の弟の近衛を天皇を即位させ、崇徳上皇は不満を持った。

1155年近衛天皇が死去。
鳥羽法皇は後白河天皇の子の守仁親王、後の二条天皇を後継者に
と考える。
↑鳥羽院の寵愛深い美福門院の養子だから。
いきなり守仁親王を天皇にはできず、中継ぎの天皇として後白河が天皇に即位

崇徳上皇の不満は高まり、鳥羽法皇の死去を契機に対立。

摂関家では父親の藤原忠実が、
摂関を務めてきた長男の忠通ではなく、
次男の頼長に家を継がそうとして、忠実・頼長と忠通が対立。

武士も、源氏、平氏それぞれの中で分かれて、二つの陣営について戦った。
源氏では義朝が後白河天皇側
に、為義、為朝が崇徳側。
平氏は清盛が後白河側に、叔父の忠正が崇徳側。
乱は短時間で終わり、後白河天皇側が圧勝。

王権継承の対立が初めて武士の力によって決着した。武士の社会の始まり。


後白河は二条天皇に譲位し、上皇として院政
を始めた。
その側近として政治を主導したのは、院近臣の信西。
信西が急激に台頭し、他の院近臣や二条天皇の側近が反発。

平治の乱 1159年
 行動や利害関係はまだわかっていないことが多い。
院近臣藤原信頼が源義朝と共に信西を襲撃。
信西が滅ぶと、後白河派と二条天皇派が対立。


この時、平清盛は熊野詣での途中だったが、
湯浅宗重など紀伊国の武士に支援されて軍勢を整え、都に戻る。
二条天皇派は清盛と手を結び、藤原信頼は処刑。
東国へ逃げようとした源義朝も家来の裏切りにより命を落とした。

平清盛はこのあと後白河院と二条天皇の両方に気を使いながら力を付ける。

1165年 二条天皇が亡くなる。
清盛の娘の徳子と後白河院の息子(後の高倉天皇)が結婚。
1167年 武士として初めて太政大臣になり、平氏政権が作られていく。

後白河院と清盛を繋いでいた健春門院(後白河院の妻)が亡くなると、
二人は対立するようになり、源平合戦(治承寿永の内乱)に突入。


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