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 どこから来た? 縄文人の真実 

にっぽん! 歴史鑑定

北海道礼文島 約3800年前の縄文人骨
顔は四角く、眉間は少し出っ張り、鼻は高め、上下の歯のかみ合わせが合っている。
耳垢は湿っている。身長は男性が約158cm、女性は約153cm。

氷河期が終わり、定住生活。
植物から糸を作り、衣類を作った。刺繍も行っていた。

三内丸山遺跡
茅葺の竪穴式住居 直径4m未満。6畳位。4~5人が住んでいた。
屋根が傾斜しており、雨は外に流れていく。
夏は涼しく、冬は火を焚いて暖かい。
真ん中に炉の跡。
板や植物を編んだ敷物を使っていたのではないか。
燻製を作っていた。土器や石皿も場所を決めて置いていた。
煙が木材を燻し、家の耐久性が増す。竪穴式住居の寿命は10~30年。

大型竪穴住居 長さ約32m、幅約10m。
300人位入れる。集落の中央辺りにある
ので、集会所や共同住居だったのではないか。

5~10家族(30~100人)ほどの集落だったのではないか。
けがや病気の人を助けながら、協力して生活していた。


縄文人の起源
長い間、縄文人の特徴は東南アジア系の種族に近い、つまり南方説が有力だと思われてきたが、
2017年、福島県の三貫地貝塚から出土した約3000年前の縄文人骨の奥歯のDNAは、
東南アジア系の種族とはかけ離れていた。

縄文人は東南アジア系の種族が進化したのではなく、
北方・東方・南方、複数の経路から来た種族が日本列島で交わり、独自に進化した、
アジアでも特異な人々だった。

縄文土器の変遷
無紋土器(青森県) 16000年前、日本最古。

定住を始めた縄文前期に、三内丸山遺跡などでバケツのような土器が多く作られ、
縄目の模様は100種類以上
あったが、模様の意味はまだ分からない。
縄目の模様を中心とした土器から粘土を張り付けた模様に変わった。
土器作りは主に女性。

生活が安定した中期に、新潟周辺の火焔型土器など、装飾過多な土器が出現。
模様は単なる装飾ではなく、縄文人の世界観・哲学・思想などを表現している。

それぞれの地域に、時代によって独特の様式の土器が発達した。

後期以降には日常用の簡素な土器・儀礼用の繊細な土器などを作り分けている。

製塩土器

縄文ハンバーグ


三内丸山遺跡の6本柱
登ると八甲田山や陸奥湾が見える。
当時はここから海岸線が一望でき、海からやってくる際には目印になったのではないか。

二支二分 一年という時間感覚があった。


1992年に三内丸山遺跡で見つかったヒスイの大珠は新潟県糸魚川産。
海や川は丸木舟。
北海道白滝産の黒曜石が青森県で見つかっている。
オノマトペを利用して、他の地域と情報も交換していた。


土偶
遮光器土偶も左足が欠けている。


一歳未満の子供の、手形・足形の陶板
穴があり、ひもを通してぶら下げていたのかもしれない。
生まれたお祝いか、それとも形見か。
どちらにしても子供を思う気持ちが強く感じられる。



感想 岡田康博さん・小林達雄さんが出演していました。気になったところだけメモしました。



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 『縄文の思想』を読んだメモ 

『縄文の思想』 瀬川拓郎さん 第四章のみ

自然との共存とは、低開発ではなく、
自然と結び付いていた世界観、他界観が現実の世界そのものであり、
自然自体が人々の生と死を結び付けるものであった。

狩猟する海民

卜部、亀卜、卜骨

平安京にも組み込まれた芸能などを担当した人々は縄文の伝統を持つ。

海民とアイヌは自らの社会を成立させるために不可欠な自由と自治のために、
縄文の思想を選んだ。


アイヌのいろんな場面で使う呪文の話 ←ラピュタを思い出しました。

贈与 アイヌ社会で最も社会的価値があった。
神と人も贈与で結ばれる。人間は生を与えてくれた者への負い目を抱く。
贈与こそが人間を肯定する唯一の手段であり、不断の贈与や生の肯定を生み出す。

平等と分配 
神からの贈与は魂
でもあり、商品化して売り払ったり独り占めすることはしない
商品経済は人間性を否定している?


喧噪の思想 話し合いは全員で同時に発言。
何日もかけて皆の知識と意見が出尽くせば自然に結論が出る。
強制や圧力とは無縁。



海賊的なアイヌ 弥生時代以降。
縄文時代は一つの大きな閉じた系だったので暴力とは無縁
だった。

中世アイヌは傭兵としても活動。

離群の衝動 体制からの離脱。国境など関係ない行動範囲。


感想 ひらがなが多いと読みにくい。今回は特に覚え書きで分かりにくくてすみません。
現代の考え方と違うことがいろいろあった。
話し合いの方法はストレスが少なそうだと思った。
自分の言いたいことを言いまくっていたら段々周りの声も耳に入って来て、
考えが変わっていくんだろうな。全員同じ場所で言うから陰口もないんだろうな。
現代社会は同調圧力が高くて、それが日本の特徴かと思っていたけれど違うのかもしれない。



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 #4終 縄文文化が日本人の未来を拓く まとめ 

縄文大和言葉
定住によってヒトになる

自然から抜け出て自分と自然を対象化する。
ものや自分に名前を付ける。共有の知識となる。

「人間は基本的文法をちゃんと先天的に持っていた」ノーム・チョムスキー


言葉は人間の共通した能力であり、どこの地域の人も持っている。
だから世界には5000以上の言語がある。


日本語も人間がヒトとしての意識を持った頃からあった。
弥生時代に海外からやって来たわけではない。


日本語は自然と共感共鳴した言葉 
自然の声を聞き、自然と話している。



多種多様な食料の利用 生育場所・旬・調理加工法・保存法。
しかし、自然を一方的に利用したのではなく、
名付けたあらゆる自然のものに人格を認め、耳を傾けることができた。


オノマトペは縄文の中から生まれた
擬音語 川がさらさら流れる・風がそよそよ吹く
擬声語 つくつくほうし(鳥や虫の声と人の言葉を重ねて表現)
擬態語 じっと見る



外国には無い表現は日本独特の感じ方
懐かしい・物悲しいなど。


一万年以上続いた自然との共生の体験の中で縄文世界観が醸成され、
日本人的心の基盤が形成されていった。
それは、文明先進国がどこも体験することのできなかった貴重な時間だった。


年間を通した行動指針
言葉があると、過去や未来、観念的な話
もできるようになる。
縄文文化の一万年以上の歴史は日本語の歴史であり、
弥生時代~古墳時代~古代へと続いていく。


文化が言葉を生み、言葉が文化を彩る。
縄文大和言葉は次の万葉言葉につながっていく。

万葉集の歌の根っこは深く、少し遡ると縄文時代に入る。

ただ、原日本語には文字が無かった。
古代に中国の漢字を採用し、音読みと訓読みに使い分け、
さらに漢字の意味を大和言葉に合わせたりした。
万葉仮名・ひらがな・カタカナを発明。



古事記は日本人の根源を追究した
律令制と都城制で国の体裁を整え、古事記で国の主体性を表明。
当代王朝の正当性を証明する六国史とは違う。

序文が象徴的。
「古を省みて今の時代を照らし、人の道に学ぶものである」


古事記発の漢字交じりの日本語は日本文化の形成を促し、
日本文化は日本語の基本を維持しながら当世風に蘇生を繰り返してきている



古今東西の詩歌は恋に重心があるが、
日本では中国の影響を受けながらも自然や四季の素晴らしさを大いに詠う。
古今和歌集は全20巻の三分の一の恋歌と並んで四季の歌も三分の一
を占める。

自然を詠う心は俳句にもつながる。
縄文文化・思想は現代にもつながっている。
縄文文化の末端に、私達も居る。




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 #3 縄文文化が日本人の未来を拓く まとめ 

文人の空間認識
イエ 人工    ウチとソトが境界。
ムラ 人工    ウチとソト
ハラ 自然+人工 ウチとソト 生活に必要な物を頂いてくる。
ヤマ 自然    コノ世とアノ世 
ソラ 他界

ヤマ 神奈備 三角錐の美しい形の山。


記念物の始まり 村の設計にヤマを取り込んだ。
二支二分が山頂にぴったり重なって見える地点に村や記念物を作った。


多摩丘陵    中期のムラが富士山を目指して一直線に並んでいた。
山梨県牛石遺跡 中期後半
三内丸山遺跡  中期後半
大湯環状列石  後期前半



記念物 1~3の複合形もある。
1、石
2、太い柱・長い柱
3、土を盛り上げて土手を築く


世界観の表現 目に見えないものを浮かび上がらせる。天文学とは別。


縄文中期 太陽運行を取り込んだ。

三内丸山遺跡の6本柱
二至二分の日の出日の入りが分かる日時計。
3本と3本の柱の間に、冬至の日に太陽が沈む。夏至の日は2列の柱の間から日が昇る。

6本柱は縄文尺(手首からひじまでの約35cm)の倍数。



縄文後期 村とは別に大きな記念物を作る。
(三内丸山は村に記念物を設置できるほど良い場所だったから1500年も続いた。)

大湯環状列石
共同墓地ではなく、夏至の頃に集まって仕事をして、
その後にお祭りをしたのではないか。
日常を排した聖なる空間ではないか。
円形劇場で仮面劇や成人式などを行ったのかもしれない。

各地のストーンサークル 個性的。我は我なり。
超古代からの挑戦状! ①縄文ストーンサークル編 よかったらこちらもどうぞ。


現代につながる記念物
相模国 
中期の大遺跡が多く、縄文文化が行き渡っていた。
富士山と大山を風景に取り入れている。大山の山頂に土器を運び上げた。

神奈川県神崎遺跡
弥生時代の環濠集落は通説の防御施設ではなく、むしろ記念物としての名残が強い。


勝坂有鹿谷祭祀遺跡(相模原市) 古墳時代。

前方後円墳・古代の寺院・五重塔・天守閣・東京タワーも、景観づくりとしての効果。


縄文人の心は神社につながっている 
神社は、現代でも、縄文ムラの隣や、縄文時代の重要な地点
に残っている。

寒川神社 二至二分の全ての日に太陽が神社の真上を通る。
夏至は丹沢の大山、春分・秋分は富士山、冬至は箱根の神山
に日が沈む。

神道・神社は仏教の伝来により形になった
教義の発達よりは八百万神と自然との交感を旨とし、土着思想の主体性を確立し、
仏教と共存した。



感想 
寒川神社(神奈川県)は意外に行きやすそうな場所にあるのですね、行ってみたいです。



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 #2 縄文文化が日本人の未来を拓く まとめ 

土器
世界では少なくとも3か所で独自に始まり、周辺に広がった。
メソポタミア(9000年前)
アマゾン川流域(7000年前)
東アジア(ロシア・中国)

縄文土器 約15000年前 世界最古。 
世界各地で石斧が発明されたように、
縄文人が世界で始めに土器を作ってもおかしくはない。


漆も中国から伝わったと考えられていたが、
2000年に北海道で世界最古の漆器(約9000年前)が見つかった。
日本列島は縄文時代から人口密度が高いので、ひらめく機会が多かったかもしれない。



西アジアの土器は食料などの貯蔵・食事の盛り付け用。
縄文土器は深鉢を主体とする煮炊き用。
一万年以上作られた。

波状口縁 縄文土器の共通の特徴は口縁部の突起。
沖縄や対馬にも広まったが、朝鮮半島ではあまり発掘されていない。
言葉・文化・価値観などが共有できなかったのだろう。

機能を捨てて世界観を表現
突起の数は3とか5、7や9のものもある。
煮炊きの跡があるが使いにくそうな形。


物の後ろにある縄文人の生き様を見つける
現代人とは違う論理に基づいている。矛盾していることを見つけたら相当核心に近い。


造形の歴史は無駄なものを削っていく引き算だが、縄文土器は足し算になっている。
これは文化的な意味が大きい。
見る人と世界観を共有するためにつくったのではないか。
装飾ではなく、物語が込められているのではないか。
神話や自分達の歴史かもしれない。



土偶 同時代の朝鮮半島やシベリア沿海州には無い。
元から壊されるべくして作られたのではないか。
そして、それぞれの部位を別の場所に持っていった。


1、創成期   掌に入る大きさ。
2、早期・前期 顔が無い。精霊を形にするために人型を避けたのではないか。
3、中期    顔表現を始める。
4、後期・晩期 人型に見えるが意図的にかけ離れた表現。精霊のようなもの?


超大型土偶 数は少ないが、完全に近い形を留めている。
並みの土偶とは違う特別な役割? 祀りに使われた?

人間離れした表現
人間の女性像ならもっと現実的に作る。精霊のようなものを表したのではないか



おまけ 縄文一万年の美と祈り



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 #1 縄文文化が日本人の未来を拓く まとめ 

縄文文化が日本人の未来を拓く 小林達雄さん
※纏めるために順番を大きく変えました。

人類は600万年の歴史があるが、旧石器時代まではあまり文化水準は変わらない。

人間の歴史で重要なのは、
第一段階の遊動的生活から、第二段階の定住的生活への変革。
しかし、農耕だけが定住を可能にしたのではない

縄文文化 
狩猟・採集・漁労の三本柱が定住で実現し、文化を高めた。


定住
食べ物を袋などに入れて持ち帰る。
体力のある者が食料を集め、老人や子供は家周辺にいる。
食べ物の情報が蓄積する。名をつけて覚える。

縄文文化で定住するようになってから文化が発展。

竪穴住居 技術と労力が詰まっている。

ムラ(村)とハラ(原)の共存関係 大陸の農耕文明はハラを征服しようとする。
ムラ 情報が集まり、文化が充実する生活地。
ハラ 活動を支えるエネルギーの供給源。


狩猟採集漁労生活 自然への適応を深めていった歴史。

旧石器時代 食料を貯蔵せず、移動生活。

縄文時代  食料の保存・加工技術を持ち、年間の食料事情を安定させ、定住。
早期(約11500~7000年前) 貝塚・海産資源。
前期(約 7000~5500年前) どんぐり類。
中期(約 5500~4500年前) あく抜きの技術、栃の実の食用。

可食植物の一部を栽培・管理・選択 しかし農耕ではない。 

イノシシの飼育 第一の道具が極まり、第二の道具が出現した中期以降。
第一の道具 生活に使う。
第二の道具 呪術・儀礼・祭祀に使う。


驚くほど多様な縄文の食料事情
何かの食料が少ない年も他の食料で補う。あらゆる食べられるものをありがたく頂く。
おいしい時期に食べる。



縄文カレンダー 年間計画を継続する。
多種多様な食物の利用は、それだけ多種多様な労働作業が行われていた。
相当計画的だっただろう。土器をつくる時期なども決まっていた。
食糧貯蔵や加工は未来のための作業。
縄文人たちはその日暮らしではなかった。



農耕が無くても豊かに暮らせた
つい最近まで、
人間は農耕や牧畜により食が安定し、労働が軽減し、余暇が生まれたと思い込んできた。

しかし、アフリカやオーストラリアなどの各地の狩猟採集民の研究の結果、
狩猟採集民の多くは、一部の極北や砂漠地帯以外は豊かな食物があり、
栄養バランスはむしろ農耕民より安定
していることが分かった。

狩猟採集生活は常に飢餓状態だったと言う考えは、
農耕社会が常に狩猟採集生活より優れているという思い込み

農耕民となった結果、異常気象や、不作や豊作の周期などによって、
現代においても世界人口の三分の一が飢えている。


労働時間も、狩猟採集民は一日2~3時間の労働に対し、
農耕民は4~5時間以上働き、しかも人手も要る。

狩猟採集民は特に男性が時間を持て余していることが多い。


おまけ 纏めきれなかった人口について思い出しました。
自然の中で生きていた縄文人達の乳児は母乳を3歳位まで飲んでいたので、
女性は人生で4回位出産し、成人したのは1人か2人位だったのではないか
と書いてあったと思います。
寿命は、昔の研究では20~30歳だったが、全体的にもう少し長生きしたのではないか、
かなり長生きした人も居たようだ
と書いてありました。



感想 サピエンス全史の「人類は小麦の奴隷になった」話を思い出しました。
寒冷化で自然の恵みが減ったので仕方なく農耕に移行したという事情もあるようですが、
結果的に現代はそんな状態になっていると感じます。

なるほどと思ったご意見
1、人間の社会性と単体での幸せは全く相関ないどころか、
具体的に小麦の奴隷にされたことで幸福度が下がった
話、皮肉っててめっちゃ好き

2、http://www.panyako.com/entry/Wheat-slave
人類は小麦と出会う前には戻れないから、小麦の奴隷ということに気付いたときに、
無理のない人口を維持すること
必要最低限の設備を完璧に整えること

この2つに尽力すれば、また気楽な生活を送れたんだ。
みんな何かに支配されていて、それを得るために日々ジタバタ頑張っている
でもその支配からの脱却を考えるよりも、
それと上手に付き合うことを意識して生きた方がいい
なって思った。


幸福度を上げるために考えてみました
2のご意見をとてもいいと思ったけれど、物足りないと思う人も居るだろうな。
それに、全て同意というわけではありません。ちょっと違うと思う所もあります。
人はそれぞれの考え方があるから、一つの型にはめると不満を感じるのだと思います。

そこで、どのような環境で生きるかを選ぶことができたらいいと考えました。
最先端の文明都市に住みたい人はそれを維持するための生活(現代社会のような)をして、
忙しくても充実感を得ればいいと思います。
文明が無いと生きるのが難しい人や未来のために研究したい人もそこに居ればいいと思います。
一方で、例え電気が無くてもいい、お金を稼ぐ仕事に興味が持てない人も居ると思います。
毎日移りゆく自然の様子を感じる方が充実感を感じる人も。

国民の三大義務に勤労・納税(あと一つは教育)がありますが、
文明の利用量によって額を変えて、文明を使わない生活も選ぶことができたらいいと思います。
文明を使わない程度はいろいろな段階があり、暮らしてみたい場所に暮らせるようにしたら、
過疎化問題やエネルギー使いすぎ問題が緩和されると思います。
国際貢献は、国民の幸せも保障しながらできることを行っていけばいいと思います。
例えば休耕田でお米を作って余った分を送るなど、今あるものを活かせたらいいと思います。
もし額が減って文句を言われたら(文句を言われるってひどい状態だけど)、
「今まで国民を働かせすぎたし、エネルギー保全のため」など位は言ってもいいと思います。

そして、状況や考えが変わったら、手続きをすれば選び直すことができたら、
本当に文明を活用し、自由な生き方ができている世界ではないかと考えました。



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 縄文一万年の美と祈り 

歴史秘話ヒストリア

縄文文化 BC11000頃~BC400頃まで。
世界に先駆けて土器を作り始め、始まって間もない頃に漆製品も発明。

狩猟・漁労・採集を生業とし、自然の恵みを受けながら、
一万年もの間、安定した生活を続けた、世界でも珍しい文化


土偶から縄文人の願いを考える 

1、縄文の女神(紀元前3000~2000年・山形)
どっしりした安定感がある体。

2、縄文のビーナス(紀元前3000~2000年・長野)
厚みを削ぎ落した結果、かえって豊満に見える。

3、ハート形土偶(紀元前2000~1000年・群馬)
くびれた腰ときれいなハート形の顔。口もある。

3つとも女性の像。お腹に正中線があり、妊娠した女性を象っているようだ。


顔面把手付深鉢形土器
出産の場面
を造形として表し、安産や子孫繁栄を願った。
当時は医療や衛生環境が悪く、出産で子供も母親も死ぬことがあった


土偶の髪型を再現 
纏め髪で動きやすそう。編んで纏めて櫛を挿しておしゃれ。複雑な髪型。

赤漆塗飾 漆の櫛も発見されている。

土製耳飾り 5cm位で大きい。

メイクや服の模様も推測することができる。
目の周りなどをベンガラで塗る。

土偶は特別なお洒落をした時の女性を写し取ったようだ。


微隆起線文土器(11000~7000年前) 全国で出土。
先が尖っていて立てることができない。土に埋めて使った?

1、鍋ではなく、再生を祈るための造形物ではないか
月の水を集める儀式を行い、土器を土に埋めて月の水を集めたのではないか。
土偶は上を向いている物が多く、月を見ていたのではないか。

満月の夜は大潮。月は水とも関わっている。
月の美しい夜、空気中の水分が夜露となり、よく葉っぱにつく。
縄文人は夜露を月の水と考え、再生の力があると信じたのではないか。

2、尖り底の土器は、かまどの灰に押し込めばむしろ煮炊きに適しているという意見もある。
尖っている方が安定している。←かまども底が丸いし、満遍なく火が通りやすそうですよね。


神像筒型土器(3000~2000年前・長野)
月を表しているのではないか。縁の大きな穴は新月と満月。
月を表した縄文土器は他にもある。

29.5周期は、女性の月経などと同じなど、生物は月の影響を受けている。
月の満ち欠けに自らの一生を重ね合わせたのかもしれない。



死者を大切にする人々 
居平遺跡
(長野) 現在は埋め戻されている。
環状集落 300年住んだ。村の中心に広場とお墓があって住居が周りにあった。

大湯環状列石も墓地を中心とした遺跡。それぞれの石の下に人骨が埋められている。

死者は新たな命を得て再生すると考えられていた。


土器に使われる蛇の造形 とぐろを巻く蛇は再生を表している。
縄文土器の縄目は、蛇のうろこを表しているとも言われる。


今まで見つかった2万点もの土偶はほとんどがばらばらな状態
完全な形のものは一割もない。
わざと壊したのかもしれない。

子孫への祈りを託して造った土偶を分割し、
自分達みんなが恵みを受けられるように一つ一つ要所に埋めたのではないか。



自然への崇拝 
縄文人たちが美に込めたのは日々の糧そのもの。

中でも崇拝の中心は、日々の糧や土器の材料をもたらす大地

一度食べた命たちは、もう一度大地の底から沸き立って、
命がこの世に溢れるようになって頂きたい
と願ったのではないか。

土偶はまだ分からないことがたくさんある。


感想 
主に土偶と土器についてでした。まだ仮説です。
でもはっきりとは分かっていない時代の話をいろいろ考えるのは面白いなあ。



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 日本人謎のルーツ 

諸説あり!

定説の日本人のルーツ
20万年前 ホモ・サピエンスがアフリカで誕生。
10万年前 アフリカを離れ、グレートジャーニーが始まる。
 4万年前 日本の近くに到達したと考えられる。


縄文人
約16000~3000年前まで現在の日本で文化を形成した民族。


これまでは、日本列島の初期の住民である縄文人は、
東南アジアや東アジアからやってきたと考えられてきたが、
最近の研究で日本列島に固有するDNAがあることが分かってきた。


M7a N9b

縄文人は、他のアジア人と違う経緯で日本列島に辿り着いた可能性がある。


所説1 北方説 2万年前にシベリアから来たマンモスハンター

縄文時代の遺跡は、関東より北に多く見つかっている。
10万年前 氷河期で日本列島は大陸と繋がっていた。
2万年前も大陸と繋がっており、北海道から来た。
津軽海峡が深く、マンモスもいないので、それまで留まっていたらしい。
18000~17000年前頃に、なぜか渡ってきた
らしい。

日本人は東シベリアのブリヤート人とそっくり。
D4j8

バイカル湖周辺のブリアート人と日本人が持っていて、
韓国人や中国人にはほとんどない。


嶋木遺跡(約2万年前・上士幌町) シベリアと同じ成分の土器が見つかる。

白滝ジオパーク 細石刃。
ソコル遺跡(約2万年前・サハリン) 細石刃の材料は白滝産の黒曜石。


2万年前、マンモスの移動に合わせて北海道とサハリンを行き来していた。
やがてマンモスが絶滅し、北海道の自然に適応して留まった人、
北へ去った人、日本列島を南下した人もいただろう。


市谷加賀町二丁目遺跡(東京)
約4000~5000年前の16体の人骨 北から来た人々
だと考えられる。

アイヌの人の熊祭りのような、
自然に神々が宿る、循環して帰ってくる、神様に贈り物をするなどの考え方が、
日本人とシベリアの民族との関わりを感じられる


三内丸山遺跡の土器 シャーマンの絵が描かれている。
シベリアのチュクジ族のシャーマンに似ている。
東北にはシャーマンが多い。土偶も一種のシャーマン
である。


所説2 南方説 4万年前に南から海を渡ってきた海洋民族?

武蔵台遺跡(4万年)
南から来た石器と北から来た石器
 南から来た石器の方が古い。
南はスンダランドからフィリピン・琉球列島・沖縄を通って南九州に入る。

スンダランド 現在のタイ周辺に形成されていた広大な陸地。
4万年前、スンダランド→沖縄→鹿児島
へ渡った可能性がある。

上野原遺跡(霧島市)
上野原縄文の森 約9500年前の竪穴式住居の復元。
三内丸山より前に、南九州に縄文の集落
があったことが分かってきた。

つぼ形土器 7500年前 ほぼ完形で出土。
稲の伝来と共に発達したと考えられていた形の土器が、すでにあった。


肉や魚を燻製する技術もあった。

栫ノ原遺跡(鹿児島) 丸ノミ型石斧(約11000年前)
東南アジアに、さらに昔の同じ形の石斧があり、伝来したのではないか。

しかし約7300年前、鬼界カルデラ噴火があり、
南九州の縄文人は全滅したのではないか。
一部は西北九州や四国に逃げた人もいたのではないか。


北方説のDNAもあるだろうが、
旧石器時代の、もっと古い時代のDNAも調べないと起源は分からない。



所説3 12万年前、縄文人以前の日本に先住民がいた?

砂原遺跡(出雲市)約12万年前の20点の石器。
入口遺跡(長崎) 約10万年前。
金取遺跡(岩手) 約9万年前。


大陸起源のオリエンタリスという象の化石が、
日本列島の50万年前より古い地層から出てくる。
同じ時期に大陸から哺乳動物が日本列島に渡って来たのではないか。

50万年前、九州辺りが大陸と地続きだった。
しかし、新人のホモ・サピエンスが現れたのは20万年前。


約200万年前 猿人 アウストラロピテクス
 180    原人 北京原人など
  35    旧人 ネアンデルタール人など



2016年、ドイツの科学誌
花粉症の免疫に関わる世界中の遺伝子を調べ、
花粉症DNAがネアンデルタール人
にあることを突き止めた。
そして、日本人は約51%が持っている
アフリカにはほとんど無く、ヨーロッパはまあまあ多く、北欧は少し少なく、
アジアやアメリカは15%位、南米は少ない。


ネアンデルタール人が日本列島に居た可能性がある。


感想 
所説1は、「なぜか津軽海峡を渡った」という所で少し笑ってしまいました。
何か渡らざるを得ない事情があったんだろうなと予想はできるものの、
はっきりしないと公式には言えないんだろうな。

どの諸説が正解だと思うか
出演していた方は、ご自身の長年の研究結果を踏まえ、だいぶ悩んだ末に、
「4万年位じゃないか」と仰っていました。
それが常識的な態度なのだろうと思いつつも、どの説も面白かったです。
年代が違うから、全部事実かもしれないと思うほど説得力がありました。

所説1・2・3はそれぞれ別の集団だし、
これから他にも集団が出てくるかもしれません。
長い時間の中で、いろんな集団が辿り着いた時代という認識になり、
縄文人・縄文時代という括り方は無理になってくるかもしれないと思いました。

所説3は縄文人以前の話ですね。
グレートジャーニーで言う4万年前よりも前ですが、あり得ると思います。
だってグレートジャーニー説は日本にあまり関心がなさそうだもの(笑)。
無人ということはなかったんじゃないかなあ。
以前、グレートジャーニーを纏めながら、
4万年以前の日本列島は無人だったというのは本当かなあ、
どうも日本は当てはまらない気がするなあと、少し思っていたので、
グレートジャーニーとは関係のない所で、それ以前に人が居たという説は、
有り得ると思いました。

と納得していたら、最後に爆弾が!
ええええー?! 花粉症の原因がネアンデルタール人?! 花粉症DNA?!
花粉症の人が増えたのは戦後からではないの?!
杉を植えすぎた以外の理由もあったの?! ちょっと調べてみました。

日本の花粉症の歴史の纏め
日本の花粉症は高度成長期とともにやってきた!

やっぱり、花粉症の人は戦後から増えたんですよね。
昔も花粉症やアレルギーはあったけれど、人数は少なかったようです。

(簡単な纏め)
アレルギーの原因は特定しにくいが、
日本人の生活が劇的に変化し、体質が変化したのではないか。


1、美食や欧米的な食生活への変化
肉などのたんぱく質の摂取が多くなると、異物への反応が過敏
になり、
アレルギー体質になりやすい。

2、食品添加物の多食
インスタント食品やスナック類、ファーストフード、保存食など。

3、気密性の高い住宅
ダニ(特にチリダニ科のヤケヒョウヒダニ、コナヒョウヒダニ)が増えると、
アレルゲンとなる。

4、ストレス社会
毎日厳しい選択と実行を迫られている。

また音・光・閉塞感など、無意識のストレスもある。
ストレスが即アレルギーを生んでいるかどうかは測りにくいが、
免疫機能の変調をもたらすことは確か。

5、アスファルトの舗装
花粉がアスファルトに落ちると、湿ってデコボコした土と違い、
上昇気流でまた舞い上がり、空気中に飛んでいる時間が長くなり、
人間が吸いこむ機会が多くなる


6、ディーゼル排出微粒子で弱った鼻や肺
さらに花粉症になりやすくなる。

7、日本人のカラダの中に寄生虫がいなくなり、
抗原抗体反応(アレルギー)が花粉などで起きやすくなった
という説もある。


現在の花粉症の人が多いのは現代の生活が原因だけど、
そもそもの花粉症DNAを持ち込んだのはネアンデルタール人ということか。

花粉症は辛いけれど、いい遺伝子ももらっているかもしれません。

縄文文化(日本文化)の独自性はネアンデルタール人と関係がある?

出発地点のアフリカ、旅の初めの地域にはネアンデルタール人成分が少ない。
DNAってすごいなあ。一人一人が生きた証がちゃんと残っているね。

でも、DNA鑑定は一つのことについて一つだけ分かる、という感じもします。
いろんな分け方が出来そうだけど、分け方を間違うとミスリードしてしまうかも。


おまけ1
陸続きだった時代
番組では北海道がくっついていたり、九州がくっついていたりしていたけれど、
長い間、かなりくっついているなあ。大陸の一部というくらい。

日本列島の形成と日本人の祖先
北海道と樺太、九州と朝鮮半島が陸続き、日本海は巨大な湖。

6万年前頃が最も厳しい氷河期 ベーリング海峡も氷で覆われていた。
ユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きとなって、多くのアジア人がアメリカに移動。
アメリカのインディアンも、日本人と同じアジア人で、モンゴロイドの一種。

3万年前~1万年前 大地震や海底火山の噴火などの地殻変動や、
気温の上昇による氷河融解で海水面が上昇したことによって、
世界はほぼ現在の大陸を形成

日本列島が今のような形になったのは今から約1万年前。けっこう最近。
縄文時代は大陸から切り離されてから生まれたのかな。


おまけ2 日本列島の旧石器時代
氷河期の最寒期でも津軽海峡、対馬海峡は陸続きにならなかった。
4~3万年前に世界最古の磨製石器

動物相
幾度となく北、西、南の陸峡間宮・宗谷・津軽・対馬・朝鮮などの海峡)を通って、
いろいろな動物が渡ってきたと考えられている。
さらに、それらの動物群を追って旧石器人が渡ってきたともいわれている。

最終氷期に大陸と繋がった北海道だけは
マンモス動物群が宗谷陸橋を渡ってくることが出来たので、
それらの混合相
となった。

ナウマン象は約35万年前に日本列島に現れて約1万7000年前に絶滅。

現生人類(ホモ・サピエンス)は7~6万年前に出アフリカを果たし、
それ以前にはアフリカ外には分布していなかった。
従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)を遺したのは、
デニソワ人などの旧人である。
日本列島に現生人類が現れるのは4~3.5万年前と考えられており、
これは日本固有のハプログループD1b (Y染色体)の起源年代とおおむね一致。


デニソワ人
ネアンデルタール人と並んで、
我々現生人類であるHomo sapiens sapiensに最も近い化石人類。

また現生人類の一部(メラネシア人など)と、
遺伝子情報を部分的に共有する可能性が高い
としている。
64万年前にネアンデルタール人から分岐した人類であることが推定された。

↑旧人! それはグレートジャーニーとは関係ない人類に当てはまるなあ。
ではネアンデルタール人由来の人とはデニソワ人?
現生人類が到達するより前にこの人たちも日本列島に住んでいたのかもしれない。
長い期間のことだから色々混ざってデニソワ人とは言い切れないかもしれないけれど、
私達の遺伝子に、ご先祖様として残っているかもしれない。
こんな一節を思い出しました。

見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ
星とたんぽぽ (金子みすゞさんの詩より)


超古代は基本認識がよく分からないから、
調べた頁をさらに調べることになってだんだん訳が分からなくなるなあ。
でもこのどんどん深みにはまっていく感じが楽しいです。
でもすっきりと体系的に把握したいと思って纏めています。



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 ヤマト王権について 

ヤマト王権についてを纏めただけです。

発掘調査の進歩により、昔は大和時代の大和朝廷などと言っていたが、
今は古墳時代のヤマト王権と呼ぶ。

大和(ヤマト)
1、国号「日本(倭)」の訓読(古代の日本国家全体
2、令制国としての「大和」
3、奈良盆地東南部の三輪山麓一帯(令制大和国のうちの磯城郡・十市郡)
最も狭い3のヤマトこそ出現期古墳が集中する地域であり、
2を連想させる「大和」より「ヤマト」が適切と考えられるようになった。

3世紀から始まる古墳時代に、
「王」「大王」などと呼称された倭国の王を中心として、
有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織。
近畿地方だけではなく各地の豪族をも含めた連合政権。

現在の大和朝廷
古墳時代の後
飛鳥時代で天皇を中心とした日本国の中央集権組織を指す。


ヤマト王権の歴史
(まだ確定ではないけれど)
1、190~260年頃 胎動期。
2、270~370年頃 初期王権時代。
3、370~490年頃 完成時代。
4、490~530年頃 王権による種族の統合
5、530年頃~    初期国家の建設



1、小国の発生
弥生時代、「倭」と称される一定の領域があり、
「王」と呼ばれる君主がいた
(後漢書・107年の記述)。

3世紀まで小国分立の状態が続いた(魏志倭人伝)。

(まだ確定ではないけれど)
纏向遺跡 小国連合の中枢?
卑弥呼死後の邪馬台国を再編したものがヤマト王権?

邪馬台国が近畿地方にあった可能性が強くなったが、
初期大和王権との系譜的関係はむしろ繋がらない?

古墳の所在地に政治的基盤があったかは再検討すべきという考えもある。

2、ヤマト王権の成立
前方後円墳の出現とその広がりを基準とする
見方が有力。

定型化した古墳は、遅くとも4世紀の中葉までには、
東北地方中部や九州地方南部にまで波及


3、中期 4~5世紀は巨大古墳の時代。

4、475年 高句麗によって百済の都漢城が陥落。
雄略天皇(5~6世紀)
倭の五王の武と比定される。渡来人第二波の時期でもあった。

5世紀後半 
大王の権威が増し、大和政権の大王以外の地方の古墳が作られなくなり
ヤマト政権の性格が大きく変質したようだ。

群集墳
地方の首長の権威が落ち、地方の中小首長が台頭。

ワカタケル大王の王権強化策は成功したものの、
旧来の勢力からの反発を招き、王権が一時的に弱体化した


稲荷山鉄剣や江田船山大刀に刻された銘文とその考古学的解釈により、
地方首長が直接ヤマトの大王と結びついていたのではなく、
地方首長と、ヤマト王権を構成する畿内氏族(大伴、物部、阿部など)とが、
強い結びつきをもつようになった
と想定される。

王は「大王」として専制的な権力を保有するようになったとともに、
大王と各地の首長層との結びつきはむしろ稀薄化し、
大王の地位自体がしだいに畿内豪族連合の機関へと変質
していく。

5世紀末葉~6世紀初頭
短期間に清寧、顕宗、仁賢、武烈の4人の大王が次々に現れた
(日本書紀)。
王統自体も激しく動揺したことを示唆。

6世紀初頭
近江から北陸にかけての首長層を背景としたオホド王(継体天皇)
が現れ、
ヤマトに迎えられ王統を統一。
しかし、奈良盆地に入るのに20年の歳月を要しており、
この王権の確立が必ずしもスムーズではなかったことを物語る。

527年 磐井の乱
北九州の有力豪族・筑紫君磐井が新羅と連携して、ヤマト王権と軍事衝突

531~539年にかけては、王権の分裂も考えられ、
安閑・宣化の王権と欽明の王権が対立
したとする説もある(辛亥の変)。
一方、オホド王の登場以降、
東北地方から九州地方南部におよぶ全域の統合が急速に進み、
特に磐井の乱の後には各地に屯倉とよばれる直轄地が置かれ、
国内的には政治統一が進展
したとする見方が有力。


5、ヤマト国家から律令制へ(古墳時代後期後半)
6世紀前半は砂鉄を素材とする製鉄法が開発されて鉄の自給が可能になり、
ヤマト王権は対外的には消極的となった。

半島からは暦法など中国の文物を移入し、
豪族や民衆の系列化・組織化を進めて内政面を強化
していった。

ヤマト王権の内部では、中央豪族の政権における主導権や、
田荘・部民などの獲得をめぐって抗争がつづいた。


大伴氏失脚後は、蘇我稲目と物部尾輿が崇仏か排仏かをめぐって対立した。

6世紀末
いくつかの紛争に勝利した推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子らが、
強固な政治基盤
を築きあげ、
冠位十二階や十七条憲法の制定など官僚制を柱とする、
王権の革新
を積極的に進めた。
6世紀中葉に日本に伝来した仏教は、
統治と支配をささえるイデオロギーとして重視
され、
『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂された。

これ以降、氏族制度を基軸とした政治形態や諸制度は徐々に解消され、
ヤマト国家の段階は終焉を迎え、古代律令制国家が形成
されていく。

「日本(当初は『日本』と書き『やまと』と訓じた)」へ
7世紀半ば 唐が高句麗を攻め始める
ヤマトも中央集権の必要性が高まり、大化の改新が行われた。
壬申の乱にて皇位継承権を勝ち取った天武天皇は藤原京の造営を始め、
持統天皇の代に飛鳥から遷都
した。

701年大宝律令が完成し、
この頃からヤマト王権は「日本」を国号の表記として用いるようになった。



感想
長かった~。纏めきれていないと思うので、気になる方はwikiをご覧ください。

まだはっきりしていない部分もあるけれど、これを読んでいると、
思っていたより邪馬台国とヤマト王権は近い所にあるのかもしれない、
邪馬台国近畿派が増えるのも分かるなあと思いました。

今回の記事はヤマト王権と天皇家の歴史は同じみたいで、
邪馬台国は同じではないみたいな書き方だなと感じました。
今回纏めたこととは違う説もいっぱいあり、何が正しいかはまだ分かりません。
例:王朝交代説

畿内派だと九州派よりも、
邪馬台国・ヤマト王権・天皇家の歴史、が重なる部分がありますね。
日本書紀や古事記もあって、現実と神話も混ざっている気がして、
これらはつながっているのか別の物なのか、
すっきり説明するのはとても難しいだろうなと感じました。

私は日本列島に住んでいた、統一されていく側の方に興味があります。
大陸に影響される前、どういう暮らしをしていたのかな。
どんな現代とは違う考え方を持っていたのかな。



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 邪馬台国2時間スペシャル 

諸説あり!

前編 邪馬台国の場所について

1、九州説
吉野ヶ里遺跡
魏志倭人伝の内容と同じ構造の集落がある
宮室・城柵・楼観(物見櫓)

二重の堀に囲まれている集落が2つある


吉野ヶ里遺跡で260点もの鉄製品が出土
武器。斧・鎌・短剣・鏃。

弥生時代の鉄の鏃はほぼ九州で出土。
九州北部と南部の境辺りは激戦区だった。倭国大乱の中心地ではないか。

魏志倭人伝の地名がほぼ一致

もし九州に邪馬台国があったら、地方国家。
後に廃れたか大和政権に滅ぼされた。


2、畿内説
纏向遺跡(桜井市)
 実は1972年から発掘を開始していた。
昔は大和政権の発祥地だと思われていたが、
卑弥呼の時代の物も多数見つかった

三輪山と纏向遺跡が邪馬台国の中心だったのではないか。

発掘された数千点もの土器の3割が他の地域の土器
古代ミステリーを楽しもう・前篇

紅花の花粉 環境考古学。
古墳時代後期に渡来したと考えられていたが早まった。
染料や薬として重宝されてきた。

巻向勝山古墳 卑弥呼の墓ではないか 
年代・形・大きさが魏志倭人伝の記述と一致。


3、邪馬台国遷都説
九州から畿内に移動し、全国統一した。

もし畿内に邪馬台国があったら、邪馬台国が大和政権になったと考えられる。


4、魏志倭人伝誤読説 
『三国志』は晋が作った。
魏の曹操が大月氏国と同盟を結んだので、
晋の司馬懿が倭国と同盟を結んだ功績を記録した。
曹操より手柄を大きくしようとして、倭国は実際より大きく遠く書かれている。
しかし倭国の風俗については詳細に書かれており、信憑性もある。

伊都国の一大卒 地方知事のようなもの。
つまり、伊都国は首都圏ではない。邪馬台国は九州以外にあるのではないか。

決着 金印が見つかった時。

纏向遺跡の発掘状況 まだ5%。
遺跡は開発があった時にしか発掘できない。
絶対に発掘できない場所もある。なかなか進まないだろう。



後編 卑弥呼について

平原遺跡 3世紀・卑弥呼の墓という説がある。
女性の装飾品が多く出土。
割られた大量の銅鏡 被葬者の呪力を封じたのではないか。

魔鏡現象
平らな鏡面に光を当てると背面の文様が浮かび上がる。
太陽の光を増幅させる道具を使い、権威を持っていたのではないか。

異常気象が卑弥呼を女王にしたかもしれない
三国史記・新羅本紀  朝鮮半島に倭の人が食料を求めてきた。
三国史記・高句麗本紀 194年秋七月 霜が降りて民が飢えた。


総合地球環境学研究所
遺跡で発掘される木の年輪で酸素同位体測 セルロースを取り出す。

弥生時代の檜 2世紀の変動が大きい。洪水が多い。
127年 過去二千年間で降水量が一番多かった。

青谷上寺地遺跡(鳥取) 傷だらけの人骨。

倭国大乱 2世紀は異常気象で人々が飢え、争いが絶えなかった。

各国の王が集まり、卑弥呼を王に立てた
卑弥呼が治めた時期は気候が穏やか
になっている。

247年頃 卑弥呼の死

卑弥呼以死(魏志倭人伝) 理由が書かれていない。

卑弥呼暗殺説
1、狗那国との戦い 魏に救援を求めるが、統治の責任を取らされた?

2、日食 太陽を操る卑弥呼は権威を失った?
247・248年に日食が起こった。

老衰説
1、日食は一瞬の事
 早朝だったしあまり大事にならなかったかもしれない。
2、日食と同じ位の時期に亡くなったのかもしれない。
3、本当はもっと前に亡くなっていて、日食に合わせて発表したのかもしれない。

卑弥呼が築いた男女共存社会
卑弥呼は邪馬台国を60年位治めた。

当時の異常気象を覚えている人は減り、時代は変わっていったのだろう。
一人で頑張り続けたが、自分の権威を保つ政権を作ることはできなかった。


感想
最近は人間は思ったより活動範囲が広いと感じて、畿内説も考えていたけど、
やっぱり北九州かなあと思いました。
長く縄文時代が続いて、稲作も入って来たけど、
自分の権威を保つ政権を作る発想はまだなかった時代だったのかなと。
でも、現在は畿内派が優勢みたいですね。

ヤマト王権について 纏めてみました。



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