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 #4終 マルクス・アウレリウス『自省録』 100分de名著 

第四回 今、ここを生きる

死も生と同じ自然の現象

今が本番
将来のための準備期間ではない。

丁寧に生きる

「人格の完全とは毎日を最後の日のように過ごし、
 激することなく、無気力にもならず、偽善をしないこと。」


「すでに死んでしまった者のように、
 今までに生を終えてしまった者のように、
 今後の人生を自然に即し、余得として生きなければならない。」


「神々を敬え。人々を救え。人生は短い。
 地上の生の唯一の収穫は、敬虔な態度と共同体のための行為である。」



人間は宇宙の理性(ロゴス・幸福になれるように判断する理性)を分有している。
互いに協力していくのが自然に従った行為。



世界市民主義(コスモポリタニズム)
国家という単位を超えた共同体。

他者を切り捨てたら結局自分が切り捨てられる。


理想を掲げて生きる
理想は未来ではなくここにある。


何かを達成しないと他者に貢献できないわけではなく、
今ここで生きていること自体が、他者に貢献している。


共同体の中には死者も含まれている
死者は生きている我々に貢献している。



感想1
皇帝という立場なら、国のために力をふるっても仕方がないと考えそうなのに、
本当に世界市民主義が理想だと考えていたのだとしたらすごいことだな。
アウレリウスの治世が気になってきました。
wiki

名著86「自省録」まとめ
パックス・ロマーナ(古代ローマが最も繁栄を謳歌した百年)の、
最後の時代を統治した哲人君主。

水や地震などの災害、
ペストなどの疫病の蔓延、
絶えざる異民族たちの侵略など、
ローマ帝国の繁栄にかげり
が見え始めた時代。

ローマ軍最高司令官として戦場から戦場へ走り回った。
野営のテントの中で蝋燭に火を灯しながら、
自身の内面に問いかけるようにして「自省録」を綴ったともいわれています。
机上の空論でなく、厳しい現実との格闘、
困難との対決のただ中から生まれた言葉
だからこその説得力があるのです。

「君が求めるものは何だ」等と二人称で問いかけるように書かれているのは、
弱い自分を戒め叱咤激励するような思いが込められているとされますが、
読み手に呼びかけているようにも聞こえ私たちの心の深いところに響いてきます。


感想2
「人間は宇宙の理性を分有している」は、
スピノザの「人間も神(自然)の一部」という考え方と似ていると感じました。
スピノザは、ユスティニアヌス1世が廃した、
古代ギリシアやローマ帝国の考え方を掘り起こしたから批判されたのかな。

スピノザの決定論とストア派の宿命論って何が違うんですか?
ストア派のは自由意志と運命論が両立するという考え
スピノザのは一元論→唯物論→決定論で自由意志はない

感想3
前回のスピノザと、今回のアウレリウスを見て、
生活に追われて自分を見つめることができていないなと思いました。
でも、生活に追われているのはいつの時代も同じで、
現代は知りたいと気付いたらすぐに知ることができるのはありがたいことですね。
私が知りたいことは何か、知る時間を作ろう。



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 #3 マルクス・アウレリウス『自省録』 100分de名著 

第三回 困難と向き合う
悲しみは不幸ではない


善悪無記 「区別がない」という意味。
どんなものでも、それ自体は善でも悪でもない

ロゴス(幸福になれるように判断する理性)を正しく働かせる
これをアレテー(徳・魂が優れていること)の状態
と言う。

財産や地位を得ること自体は善悪無記。
財産や地位はアレテーと共にあれば善となる。


絶えず問い続けなければならない。

困難自体は悪・不幸ではない。
困難により得るものもある。


どんな苦難の中にあっても自分を見失ってはならない。囚われてはならない。
悲しみは自分と向き合うこと。押さえつけてはならない。


運命論 自分の運命を積極的に受け入れる。
起こることは、すべて正しく起こる。
自然に即して悪いものは何一つない。


今いる困難な状況こそ、哲学を学ぶために適している
アウレリウスは哲学者になりたかったが、運命を受け入れて皇帝になった。
皇帝になった後も哲学を学び、心の自由を保つように努力し続け、
政治の世界でも哲学の教えを実践し、市民を幸福に導くことを使命とした。


自分に起こり織り込まれたもの(運命)を愛し、歓迎すること。

運命から逃れることができなくても、
どう受け止めるかは自分で選ぶことができる。


全てを受け入れてはいけない
他人が「あなたの運命だ、受け入れなさい」と言うことは受け入れなくていい。
自分で自分の内側を掘って善だと判断した結果、受け入れたらよい。

自分で納得したことなら受け入れる。天災ですら受け入れられない。

信頼
他者が困難を克服する力があると信じられること。
困難に立ち向かう力があると自分を信じること。



感想 
ストア派

善悪無記はスピノザでも言っていたけれど、
紀元前にこういう考え方が存在していたんだなあ。
なのに2000年以上経過しても浸透していないんだなあ。
古代ギリシアやローマ帝国では非常に流行していたけれど、
キリスト教の教義と調和しないものとして、
ユスティニアヌス1世が全ての学派を廃したのか。

キリスト教にとってはローマ皇帝がキリストの処刑を命じたから仕返しなのかな。
でも、人間の幸福が主軸だったのに神の教えが主軸になった気がして残念だなあ。

運命を受け入れるかは自分の判断が必要とは、不安になるけど、
これは、#3スピノザがわかりやすいと思います。
自分を貫く必然性や、今置かれている状況を認識する。
さまざまな原因のからみあいを見つめ、解き、よい方向へ欲望を立ち上げる。

自由になる 受動的な状態を脱出し、能動的になる。
しかし完全な自由・能動になることは神でもない限りできないことを知っておく。

できるだけ諸感情を認識し、受動(自分以外の本性・力)を減らし、
自分の力を表現できるようになれば、より自由に近づける。

その条件にうまく沿って生きることで活動能力を増大させること。


運命をどう捉えるかは自分次第で、
他人に言われることではないんだなあ。
他人に言うことはおせっかいなんだなあ。

でも、大事な人が悩んでいたら幸福になれるように何か言いたくなるなあ。
私は、強制されるのは嫌だけど、自分の視野では大したことがないと思うから、
助言はしてほしいと思います。
でも、助言がもらえなかったとしても、他人のせいにはしない方がいいんだな、
自分の人生なのだから、その状況を変えるために行動し続ける方がいいんだな。



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 #2 マルクス・アウレリウス『自省録』 100分de名著 

第二回 他者と共生する

対人関係
人と関われば摩擦が生じないわけにはいかない。
悩みの源泉ではあるが、生きる喜びも、人との関係の中で得ることができる。

許すだけでなく、過ちを犯した人を愛せ
自分も不完全な人間で、過ちを犯した人と同類だから。

人間は協力する状態が本来であり、対立している状態を改めるきっかけ。
道徳的な考えではなく、人間は弱いから、それが自然な宇宙の秩序である。

過ちは無知から
何が善で、何が悪であるかを正しく判断できないから。
悪とは「自分にとってためにならない」という意味
で、道徳的な意味は含まれない。

「怒らずに、教え、そして示せ」
怒って相手を抑え込もうとすると、反発や対立を招く。

復讐する最善の方法は、自分も同じような者にならないこと。
やり返すのではなく、喧嘩から降りること。
怒りは怒りで返せと言っているようでは家庭も世界も平和にならない。
怒りや憎しみを持ち続けて生きるのは自分自身にとって幸福ではない。

「人間は互いのために生まれた。だから、教えよ。さもなくば耐えよ」 
怒りの感情を抑えて我慢してするのではなく
怒りの感情から解放されて寛容になること怒っても意味がないと知ること。

「次の結論を心に留め、心を和らげよ。
 理性的な生き物は互いのために生まれたということ。
 我慢することは、正義の一部であること。
 人は心ならずも過ちを犯すということを。
 このことを知っていれば、その時、
 お前はすべての人に優しくあるだろうから。」


「できるならば、教え改めさせよ。
 しかしできないならば、これ(他者の過ち)に対して
 寛容がお前に与えられていることを覚えておけ」



賞賛を求めない
自分や自分の行為の価値は、誰かの評価とは関係ない。
他者に振り回されない。


「絶えず波が打ち寄せる岬のようであれ。
 岬は厳として立ち、水の泡立ちはその周りで眠る。」



褒めてはいけない
褒められないと適切な行動をしなくなる。
褒める人に操作されかねない。
それは不自然な生き方。


承認欲求 現代社会はかなり理性(ロゴス)が歪んでいる。
自分の価値も他人の価値も自分で判断できなくなっている。



感想 
評価されなくても、批判されても、
自分がより幸福に生きられるように、
自分で何を努力したらいいのか考えて行動し続けていたら、
自分の人生が忙しくなるから人の評価は気にならなくなるのかな。



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 #1 マルクス・アウレリウス『自省録』 100分de名著 

第一回 自分の「内」を見よ 講師 岸見一郎さん

自省録
著者 第16代ローマ皇帝 マルクス・アウレリウス
(121~180)
160年頃から20年間位かけて書かれた。
自分の内面を見つめ、己を律する言葉が綴られた手記。
困難を乗り越える指針を書き残した。
自分のための覚書として、公開する意図はなかっただろう。

パピルスや羊皮紙に写されていた。
脆弱だったので後世の人々が写本して書き残した。
政治性はほとんど皆無だったので残ったのだろう。
1559年に初めて印刷・出版された。



皇帝に仕える名門家庭に生まれ、
少年時代は一流の学者や家庭教師に囲まれ、
特にストア哲学に熱中した。

第15代ローマ皇帝、アントニヌス・ピウス(86~161)は、
勤勉で優秀なアウレリウスを次期皇帝に指名
した。

哲学者になりたかった18歳のアウレリウスは皇帝になることに恐怖したが、
運命を前にして拒むことなく政務についた。

140年、執政官に就任し、皇帝のそばで、昼は政務、夜は哲学の勉強をした。
161年、皇帝に即位。

我々を守ることができるものは何か。
それはただ一つ、哲学だけだ。


ストア哲学
ストア 「柱が並んだ廊下」という意味。そこで哲学者たちが議論していた。
「stoic」の語源。
忍従の哲学ではなく、運命をいかに克服していくかを説く実践の哲学

プラトン
「政治を行う人が哲学を極めるか、哲学者が政治家にならなくては、
国家にも人類にも不幸が已むことはない。」



アウレリウスは哲人皇帝を目指したが、
自省録では弱音を吐いている部分もある。


苦手な部下たちと仕事をするために自分を戒めている。

朝、今日も嫌な奴らに会うだろうと覚悟する。
おだてられても偉そうにしない。
嫌な宮廷でも善く生きることができる。

など。

善く生きる
ギリシャ語で「善」とは道徳的な意味はなく、「為になる」・「幸福に生きる」

常に最初の表彰に留まり、自分で内から何一つ言い足すな。
そうすれば、お前には何事も起こらない。


例えば、〇〇から「△△が自分の悪口を言っていた」と聞いた時、
自分が「傷つけられた」と判断したらそれが本当になる。
表彰は「〇〇が『△△が自分の悪口を言っていた』と言った」こと。
それが真実かどうかもまだ分からない。

表彰に余計な判断を加えるな
お前が何か外にあるもののために苦しんでいるのであれば、
お前を悩ますのは、その外なるものそれ自体ではなく、
それについてのお前の判断なのだ。


例えば、子供が勉強していない所を見て、
この先も勉強しないだろうと悩むのはお前自身だ。

事物は魂に触れることなく、お前の外に静かにある。
苦悩はお前の内なる判断からだけ生じる。


理想を掲げて努力する
哲学は、現実を追認することに終始してはいけない。
指摘するだけでは現状を変えることはできない。
自分がどのように生きたいか方向性が必要。

自然に一致して生きる
宇宙の秩序である理性(ロゴス)
に従って生きる。
理性とは正しく判断する能力。どうしたら自分のためになるか。

お前の内を掘れ。
掘り続ければ、そこには常にほとばしり出ることができる善の泉がある。



外からの情報だけに振り回されず、内を見つめる。

掘り続けないといけない。





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 #4終 スピノザ『エチカ』 100分de名著 

第四回 真理

真理 物事を正確に認識すること。
持っている認識そのものがその正しさを教えてくれる感覚
数学の証明のように。

真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、
かつそのことの真理を疑うことができない。
第二部 定理四三 


実に、光が光自身と闇とを顕わすように
真理は真理自身と虚偽との規範である。
第三部 定理四三 備考



真理が真理の基準
真理の基準を真理の外側に立てられない。
真理の基準は真理の中になければいけない。

スピノザの真理は正しさを客観的に検証できない。

デカルト あらゆるものの確かさ・正しさを疑った哲学者

我思う、故に我在り


今考えている自分が存在していることは否定できない。
誰をも納得させる絶対確実な原理。


スピノザは、デカルトのように相手を納得させる真理ではなく、
「私にとって真理がどう語り掛けてくるか」と考えていた。

現代社会はスピノザよりデカルトの考え方を採用した。
真理を共有することは科学の基本として大切なことだが、
それだけでは扱えないものもある。


ミシェル・フーコーの「デカルト的契機」

17世紀位に真理の捉え方が変わった。
デカルトの前には、真理は経験によって獲得するものだと思われていたが、
デカルト以降は、誰かに教えてもらって認識するものになった。
例外はスピノザで、真理を獲得するには自分が変わらなければいけないと考えた



主体の変容が真理・自由への道

この人生において、
我々は特に、幼児期の身体を、
その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、
他の身体に変化させるように努める。

第五部 定理三九 備考


人間は初めは不自由な受容体だが、
成長次第で受け取れるものの量や質が多くなる。


真理は体得するもの
自分で経験し、獲得するしかない。
自転車が分かりやすい例え。
認識する能力を認識する。世界が広がる。喜びの感情が増える。

人生において何よりも有益なのは知性ないし理性をできるだけ完成することであり、
そしてこの点にのみ人間の最高の幸福すなわち至福は存ずる。
第四部付録 第四項



スピノザと公共性 個人と社会の理想的な関係とは

理性に導かれる人間は恐怖によって服従に導かれることがない。
第四部 定理七三 証明より


個人の本性を抑圧して押しつぶすようなことを国家がする限り、
人は周りに対して慮る気持ちを持てなくなって社会はだめになる。


スピノザは、一人一人のコナトゥスを大切にし、
自由を尊重する社会が長続きすると考えた。

人間にとっては人間ほど有益なものはない。
第四部 定理一八 備考より



個人主義の意味を考え直す
一人一人が自分を大切にしてしっかり生きれば他者を助けることもできる。

助け合う。人を通じて自分を知る。

本当は自分を見つめる時間をもっと作った方がいい

スコレー(ゆとり・暇)は、自分を磨き上げる大切な時間。

自分と合うものは何か、力が発揮できるのはどんな時か試し続け、
最も喜びを感じられることや、居場所を見つけていく。


人生は、実験の連続。
失敗したら、他を試せばいい。
自分が楽しく幸せに力を発揮できるところに行き着ければいい。



感想 
デカルトも取り上げてほしいなあ。100分では無理なら200分でもいいから。



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 #3 スピノザ『エチカ』 100分de名著 

第三回 自由
エチカの最終目的は「力=活動能力の増大」。「自由になる」と言うこともできる。

「自由な意思」を否定
人が意思を持つのは複雑な原因が絡まっているから

欲望の原因は意識できない 人間は欲望の結果のみを意識する。

習慣・無意識・他人の影響など、
いろいろな要素が絡み合って人間の行為は成立するが、
我々は意志というものが一元的に行為を決定していると思いがち。


私たちが一つの行為を選ぶとき、
実際には非常に複雑な要因がからまっているにもかかわらず、
自由意志が唯一無二の原因で選んでいると単純化して捉えてしまっている。



スピノザが定義する「自由」

自己の本性の必然性のみによって存在し・
自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。


これに反して
ある一定の様式において存在し・作用するように
他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。
第一部 定義七


本性の必然性

自由になるとは、何の制約もなくなることではなく、
その条件にうまく沿って生きることで活動能力が増大させること


身体の条件を生かしながら必然性にうまく従って動かせるとき、
自由自在に動かしていると言える。


自由の反対は強制
その人の力・本性を踏みにじられて強制された状態が不自由。


強制の果ての自殺

~外部の原因に強制されてするのである。
第四部 定理二〇 備考より



受動と能動
受動 自分以外の本性・力を原因とし、自分以外の本性・力を表現している状態。
行為が外部の原因・自分以外の力を表現

能動 自分の本性・力を原因とし、自分の本性・力を表現している状態。
行為がその人の力を十分表現しているとき

自由になる 受動的な状態を脱出し、能動的になる。


現代はものすごく意思への過信がある
人間は意志次第でどんな行動も決定できるという観点からすると、
意志は、行動を立ち上げる万能の起点
であり、
朝寝坊して遅刻するのも、お酒がやめられないのも、
意志が弱いからだということにされてしまう。

自由意思で選んだのだからと自己責任を突き付けられたり、
意思が弱いと決めつけられたりする
ことがある。
しかし、完全な自由・能動になることは神でもない限りできない。

現代は選択の自由がとても多い気がするが、それは本当に自由なのか、受動なのか、
自分を貫く必然性や、今置かれている状況をもっと認識する
必要がある。

意思形成支援から欲望形成支援への変化
さまざまな原因のからみあいをきちんと見つめ、解きほぐしていくことで、
よい方向へと欲望を立ち上げることで症状を緩和していく
方法。

人間は完全な自由にはなれないが、
諸感情を部分的には認識し、働きを受けることをより少なくして、
受動を減らし、自分の力を表現できるようになれば、より自由に近づける。




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 #2 スピノザ『エチカ』 100分de名著 

第二回「本質」

第三部 定理七
おのおののものが自己の有に固執しようと努めるコナトゥスは
その物の現実的本質
にほかならない。


コナトゥス 自分の存在を維持しようとする力。
傾向・方向性を持った力。ホメオスタシス(恒常性)の原理。

本質は力 哲学の大転換。
古代ギリシャ以来、本質はエイドス(形)だった。
農耕馬でも競走馬でも同じ馬として扱うのがエイドス
農耕馬は競走馬よりも農耕牛に近いのではないかと考えるのがコナトゥス

前回の善悪と合わせて考えると、両者を育てるとき、
農耕馬にとって善いことと競走馬にとって善いことは違う。
それぞれの力のありようはどのようなものであるか、
どんなものとならうまく組み合うか考えて、力を伸ばしていく
と良いのではないか。

決められた本質を目指すのではなく、
それぞれの特性に合った力の伸ばし方を考える。



欲望という本質
何かをしたい、何かをさせようとする力。

欲望とは、人間の本質が、
与えられたそのおのおのの変状によってあることをなすように決定される
と考えられる限りにおいて、人間の本質そのものである。
第三部 諸感情の定義



変状 外部からの力。
あるものがある形やある性質を帯びること

欲望とは自分を維持するための、意識を持った衝動。コナトゥスの現れ。

古来から欲望は理性に対する良くないものだと捉えられていたが、
汗をかけば、喉が渇き、水を飲むようなもの。
スピノザは欲望を自分を保つための本質だとして否定しない。
欲望自体が悪いわけではない。これも組み合わせ次第。
同じ条件下でも人によって変状も違うし、欲望も違う。

感情とは、我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、
促進しあるいは阻害する身体の変状
また同時にそうした変状の観念であると解する。
第三部 定義三


そこで我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて
時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうる
ことが分かる。
この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる。

活動能力が上がり、完全性が上がるのが喜び、
活動能力が下がり、完全性が下がるのが悲しみ。
↑完全なものはないので、このような言い方になる。

喜び・悲しみ・欲望が人間の基本的感情
その他の諸感情はこの三者から生ずる。

愛   外部の原因の観念を伴った喜び。
憎しみ 外部の原因の観念を伴った悲しみ。
怒り  憎む人に対して、害悪を加えるように我々を駆る欲望。
など

嘲弄 軽蔑するものが憎む人の中にあることを表象することから生ずる喜び。
時のヨーロッパの、特に社交界では、笑いの多くが嘲弄だった。
スピノザは嘲弄と楽しい笑いを区別し、楽しい笑いは大切だと述べた。


宗教戦争の時代
人間は宗教が絡むと非常に感情的になる。

人間は受動という感情に捉われる限りにおいて本性上たがいに相違しうるし、
またその限りにおいては同一の人間でさえ変わりやすくかつ不安定である。
第四部 定理三三


人間は受動という感情に捉われる限り相互に対立的でありうる。
第四部 定理三四

我々が感情をよりよく認識するに従って
感情はそれだけ多く我々の力の中に在り、
また精神は感情から働きを受けることがそれだけ少なくなる
第五部定理三 系


今、自分はどんな感情なのか、なぜこのような感情を持っているのか。
受動的な感情を自分で分析して少しでも理解できると、
感情の捉われから、ある程度は逃れることができる。


感想
いろいろな新しい考え方をした人だったんだなあ。
前回の考えとも繋がっていて一貫性があるなあ。

本質は形ではなく力、同じ人間でも自分にとって善いものを知ろう。

欲望は自分を保つための本質だから、欲望自体が悪いわけではない。
衝動をどのように調節したらよいか考えて行動すると良いのかな。

喜び・悲しみ・欲望が人間の基本的感情。
受けた感情を少しでも分析して理解できると、感情に捉われる大きさが減る。

完全なものはない、完全にはできない、と認識しておくのは大切だね。



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 #1 スピノザ「エチカ」 100分de名著 

第一回 善悪 講師:國分巧一郎さん

スピノザの著書
生前
「デカルトの哲学原理(1963年)」
「神学・政治論(1670年 匿名)」
キリスト教会から発禁処分。非難を浴びた。

没後 友人達により遺稿集が出版されたがこれも発禁処分。
「知性改善論」「国家論」「エチカ」「書簡集」など。


エチカ(Ethica:倫理学)
ギリシャ語のエートス
(動物たちの住処・巣)が語源。

エチカはエートスを考える哲学。
人が集まった時の、住処(すみか)に基づく習慣・決まり・倫理
を考える哲学。
頭ごなしに決めつけるものではなく、その人にとってのエチカを考えるという哲学は、
宗教が力を持っていた当時は受け入れられなかった。


幾何学的秩序に従って論証
定義を設定
   直線とは・円とは何か。
公理を定める  議論の前提となる仮定。
定理を述べる  そこから導かれる図形の性質。
証明で確かめる 正しさを確認。


スピノザはこの世界や人間の性質を明らかにしようとした。
出発点は神

神とは、絶対無限なる実有
 言いかえれば各々が永遠・無限の本質を表現する
 無限に多くの属性から成っている実体、と解する」
 (第一部、定義六)


神は無限
例えば、自分は時間的にも空間的にも有限だが、神は無限。

神は無限である
ならば神に外側はない
全ては神の中にある
私たちも神の一部である(変状・様態)


キリスト教やユダヤ教では、神とは人格神で人を裁く存在と考えられていたが、
スピノザは、我々一人一人が神の現れと考えた

スピノザの神は宇宙の意味に近い 
Deus Sive Natura 神即自然

神という言葉を使ってはいるが、自然科学的な考え方に近い

アインシュタイン「私はスピノザの神を信じる」


「エチカ」の構成
第一部 神について
第二部 精神の本性及び起源について
第三部 感情の起源及び本性について
第四部 人間の隷属、あるいは感情の力について
第五部 知性の能力あるいは人間の自由について


第一部は抽象論なので挫折しやすいが、第四部の倫理の話は具体的で読みやすい。

第四部の善悪
善悪の定義について考える

まず、人は「完全」と「不完全」をどんな意味で使うか

完全、不完全は人の思い込み

「人間が自然物を完全だとか不完全だとか呼び慣れているのは、
 物の真の認識に基づくよりも、
 偏見に基づいている
ことがわかる」



一般的観念に一致すれば完全・一致しなければ不完全と言う。

例えば一本の角しかない牛は不完全とか奇形、と言われるが、
それは人間が「一般的観念」に基づいて言っているだけで、
実際は自然の中には完全も不完全もない


スピノザは善悪も同じだと言う。

第四部 序言
「善及び悪に関して言えば~思惟の様態、
 すなわち我々が相互に比較することによって形成する概念に他ならない」

 

「なぜなら、同一事物が、同時に善、及び悪、
 並びに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである」

  

「例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、
 聾者には善くも悪しくもない」


善悪は組み合わせの結果
それ自体として完全に良いものも悪いものもない。
すべては組み合わせ次第であり、そのもの自体に善悪はない。

トリカブトは人間にとって良くないものだが、トリカブト自体が悪いわけではない。
それを忘れて結果だけ取り上げると、良いとか悪いなどの命令形になってしまう。


第四部 定理八証明より
善 活動能力を増大・促進するもの
悪 活動能力を減少、阻害するもの



善いものは喜びの感情を高める

「善悪の認識は、我々の意識した限りにおける
 喜び、悲しみの感情に他ならない」



賢者はいろいろな楽しみ方を知っている
「その人がどういう風に善く生きられるか」
というのがエチカの考え方。

「どんな科目も、人によって理解できる筋道が違う。
 どうやったらうまくいくかはそれぞれ違う」

あなたの活動能力がどうやったらうまく高まるかを考えること。
自分がどうすればそうなるかを分かっていれば、よりよく生きられる。


感想
自分も神の一部だから、自分がどうしたら楽しく生きられるかを自分で考えよう。
どんなものも、完全に善なものも、完全に悪いものもないから、
良くなる組み合わせを考えよう。



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 三木清『人生論ノート』 100分de名著 一部分だけ纏め 

※気になったところだけざっくりとまとめてメモしました。

#1 真の幸福とは何か 岸見一郎講師
人生論ノート 昭和16年刊行。一般向けの随筆。
死・幸福・成功・怒りなど、23の事柄について書かれている。
戦争時代の言論統制下で書かれたので文章が回りくどくて難しい。

しかし、著者が何を訴えようとしていたのかを考えながら読むと、
人生の折々にふと分かる日が来るのではないか。

三木清 実践の哲学者。
個性が失われつつあった時代に、自分とは何か、人間とは何かを考え続けた。

西田幾太郎の『善の研究』
を読み、
かつて感じたことのない全人格的な満足を見出し、哲学の道に進む。
京都帝国大学で西田幾太郎に学び、
将来を嘱望され欧州に留学し、ドイツでハイデガーに最新哲学を学び、
パリでパスカル研究に没頭。
帰国後は大学の哲学教授になり、32歳で結婚。
翌年に治安維持法で検挙される。
釈放後、大学を去り、在野の哲学者となり、
孤独の中、幸福について考え続ける。

「幸福の要求がすべての行為の動機であるということは、
 以前の倫理学の共通の出発点であった。」


全体主義 自分以外のものを一番にして生きると無秩序になる。
この無秩序は、自分の行為の動機が幸福の要求であるのかどうかが
分からなくなった時に始まる

「むしろ我々の時代は
 人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど
 不幸なのではあるまいか」


「幸福は徳に反するものではなく、むしろ幸福そのものが徳である。」


「我々は、我々の愛する者に対して、
 自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。」


自分が幸福であることは利己主義ではない

「幸福の要求が今日の良心として復権されねばならぬ」




自己犠牲が称賛された戦争の時代、三木の考えは危険だと判断されたが、
個人の幸福がないがしろにされている状況は現代にもある。
自分が幸福になるためのことをもっと考えたほうが良い。


成功について

「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、
人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。」



成功は過程であり、幸福は存在である
人はすでにこの瞬間に幸福
である。

成功は量的なもの、幸福は質的なもの
成功は操作されるが、幸福は操作されない。


幸福は知性で考える 幸福感は感性。

幸福は人格
幸福とは各人が誰にもまねできない独自のものを持っている。
お仕着せの幸福は外套のようにいつでも脱ぎ捨てることができる人が幸福。
真の幸福は自身と一つのものであり、
この幸福をもってあらゆる困難と闘うのである。
幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。



#2 自分を苦しめるもの
虚栄心 最も人間的なもの。否定はしていない。
パーソン(人間)の由来はペルソナ(仮面)。

虚栄に対する3つの対処法
1、虚栄を徹底する
 仮面をかぶり続け、それを本物にする。
2、虚栄を小出しにする そこそこの虚栄は向上心として必要。

3、創造によって虚栄を駆逐する
創造的な生活のみが虚栄を知らない
創造とはフィクションを作ることである。
自分の意志で人生を創造していけば虚栄を駆逐できる。


嫉妬 悪魔に最もふさわしい情念。全否定。術策的で持続する。純真さがない。
自分の想像力で作り出したものに嫉妬する。
平均化を求める傾向がある
 自分と同じでいてほしい、足を引っ張る。

自分の個性、相手の個性を認めると嫉妬から抜け出せる。
 

怒り
憎み続けているよりは怒ったほうがいい。
公憤
 三木は社会に怒ることができない現実に憤っていた。

憎しみ あまり理由もなく憎み続けてしまうのは良くない。
習慣的で持続的・自然性(半知性的)・目の前にいない人(匿名性)に対して。

知性的に、個人として相手を認めることができれば憎しみは消える。



偽善 

「道徳の社会性というが如きことが力説されるようになって以来、
 いかに多くの偽善者が生じたであろうか」



道徳の社会性 個人より社会を優先する考え方。

倫理が上から押し付けられる時勢は危険。
国策に阿る人・異を唱えない人が偽善者。
善悪の基準を他人や社会に任せていることがいけない。

ニヒリズムは独裁主義の温床である 
当時の大勢の教養人はニヒリズムに走った。



#3 「孤独」や「虚無」と向き合う
虚無 人間の条件。
生命とは虚無を搔き集める力である。それは虚無からの形成力である。

自分で形成していくしかない。

構想力と秩序
混合の弁証法
弁証法とは、矛盾や対立を解決して一つにまとめる方法だが、
矛盾や対立を解消させず、混合していく。

「どのような外的秩序も心の秩序に合致しない限り真の秩序ではない。(略)
秩序は生命あらしめる原理である。
そこにはつねに温かさがなければならぬ。」


国家の秩序
三木は近衛文麿の政権で日中戦争を早期解決するために国策研究をしたが、
昭和15年に昭和研究会は解散。


価値多元主義の危うさ 全ての価値を受け入れるのは危険だと気付いた。
価値観が何も無い所に新しく強力な価値観を植え付けることは簡単。
秩序の根源には「人間の尊厳を認める」という価値体系が必要。


孤独
孤独は山になく、街にある。
一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるものである。
孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ。

感情は煽ることができるが、知性は煽ることができない。
孤独だけが個人の人格の独立を守ることができる。


#4 死を見つめて生きる
死について
死が身近にあった時代、この本は死についての考察から始まる。

死は観念である
生きている人は死んだことがないから。
しかし死について考えることは無意味ではない。

大切な人の死
自分が生きていれば、その人は心の中で生き続けている。
「私は今後
 私に残された生涯において能う限りの仕事をしたいものだ。
 そしてそれを土産にして
 待たせたね、と云って
 彼女の後を追うことにしたいと思う。」

自分の死
執着するものがあるから死ねる。
「私に真に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する。」
自分が愛したものが残るなら、私はそこに生き続けている。


希望について
人生の出来事は偶然であり、必然でもある。
このような人生を我々は運命と称している。

「人生は運命であるように、人生は希望である。
運命的な存在である人間にとって、
生きていることは希望を持っていることである。」


希望こそが生命の形成力である
もし一切が保証されていたら、決まっていたら、希望すらない。


自分の幸福を信じ、絶望しない生き方を選ぶ
考えることをやめてしまったら大勢に巻き込まれ、抜け出せなくなる。


理想主義者 理想だけが現実を変える力がある。



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 #4終 ラッセル「幸福論」 

第四回 他者と関わり、世界とつながれ!

幸福な人とは、客観的な生き方をし、
自由な愛情と広い興味を持っている人である。


双方向の関心
興味と愛情を外に向けて広げ、人から興味と愛情を受け
、幸福を掴み取る。

本当にやりたいことをやることが大事

人格内部の統合
意識と無意識の考えが合っているか。


社会との統合
社会の一員だと思えているか。
社会に生きるには社会と自分のねじれもないほうがいい。


幸福な人は、自分を宇宙の一員と考え、人生を楽しむことができる。
自分と子孫は本当に別個な存在とは感じないので、死を思って悩むこともない。
自分が永遠の生命の流れと深く本能的に結合している所に、
最も大きな歓喜が見出されるのである。


自分の幸福と社会の幸福
自分と宇宙が繋がっているなら、全人類の幸福を考える動機になる。
自分と永遠の生命の流れと繋がっているなら、子孫の事を考える動機になる。


社会を今平和にするしかない
社会と個人の幸福が一致しなければ、本当の幸福は獲得できない。


行動する哲学者
ラッセルは、自分が幸せになるために社会を平和にするという理念で、
地球を変えてまでも幸せを目指した。

本質を突き詰めれば、一番大切なことは領土でも主義主張でもない。
人間性を守る事だけを考えたら、平和な社会を作るしかない。


1955年ラッセル=アインシュタイン宣言

私達は、人間として人間に向かって訴える。
あなたがたの人間性を心に深く刻み、それ以外の事を忘れよ、と。




おまけ
#1 アラン 幸福論 
#1 100分de幸福論


感想
あとヒルティで三大幸福論は完了ですね♪
今回はすごく早く纏める事が出来ました。



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